常楽寺~北条泰時墓 | 古都の礎

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鎌倉にある常楽寺です。

 

 

 

粟船山常楽寺という臨済宗建長寺派の寺。

嘉禎3年(1237年)、鎌倉幕府3代執権・北条泰時が、退耕行勇を開山として妻(後室・阿保実員女)の母のために建てた粟船御堂が始まり。泰時が没すると墓が造られ、菩提所となりました。5代執権北条時頼が元からの渡来僧・蘭渓道隆を鎌倉に招いた際、建長寺創建まで常楽寺の住持であったことでも知られます。

 

 

 

仏堂。

元禄4年(1691年)の建造物。

本尊・阿弥陀三尊像を安置します。

 

     

文殊堂。

 

      

北条泰時墓。

北条義時が没したときには源頼朝法華堂に倣って義時法華堂が建てられましたが、泰時は土地が狭い鎌倉に法華堂を建てることを禁じ、以降は造られなくなりました。

北条泰時(1183~1242)は鎌倉幕府3代執権。鎌倉幕府2代執権・北条義時の長男。母は阿波局。幼名、金剛。建久5年(1194年)、元服。正治2年(1200年)、矢部禅尼(三浦義村女)と結婚するも数年で離婚、阿保実員女と再婚。建保6年(1218年)、侍所別当。承久3年(1221年)、承久の乱。鎌倉方総大将を命じられ、大軍を率いて上洛。仲恭天皇の廃位と3上皇配流を実行。承久の乱後、都に設置された鎌倉幕府の出先機関・六波羅探題北方として在京。貞応3年(1224年)、父義時が鎌倉で急死。鎌倉へ戻った泰時は尼将軍・北条政子から叔父北条時房とともに執権に任じられます。義時本邸の大倉邸には時房が住み、泰時は義時別邸の小町亭を伝領。同年、政子は義時の未亡人伊賀の方が実子政村を執権、娘婿の一条実雅を将軍に据えようとしたとして伊賀の方、その兄伊賀光宗、一条実雅を配流(伊賀氏の変)。嘉禄元年(1225年)7月、政子没。泰時は自邸傍に宇都宮辻子御所を新造、大倉邸南御所にいた三寅を移し、主導権を握ります。一方で、叔父時房は初代連署に遇して協調。同12月、評定衆設置。嘉禄2年、三寅元服、藤原頼経となり鎌倉幕府4代将軍に就任。貞永元年(1232年)、御成敗式目制定。嘉禎2年(1236年)、若宮大路御所新造。仁治3年(1242年)、四条天皇が12歳で急死すると皇位継承に介入、後嵯峨天皇を擁立。同年、60歳で死去。

 

 

 

常楽寺:神奈川県鎌倉市大船5