御廟野古墳~天智天皇・山科陵 | 古都の礎

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山科にある御廟野古墳です。

 

 

7世紀から8世紀の八角墳。

周辺には御陵(みささぎ)という地名が残り、宮内庁により天智天皇山科陵に比定されています。7世紀後半以降の八角墳は天武・持統天皇陵などほぼ天皇陵に限られます。かつては上円下方墳であると考えられていたことから、明治・大正・昭和天皇の陵墓はこの陵にならって上円下方墳に造られました。

「日本書紀」では天智天皇は病のため近江大津宮で崩じたとあり、陵墓の記載はありません。しかし、「続日本紀」文武天皇3年(699年)、山科陵の造営記事がみられること、「万葉集」で天智天皇が崩じた際に額田王が詠んだ挽歌「やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや 百磯城の 大宮人は 去き別れなむ」で天智天皇の御陵が山科にあるとしていること、平安時代の「延喜式」で天智天皇陵を山科陵としていることなどから、天智天皇陵は山科陵であり他に該当する同時代大規模古墳は見当たらないことから被葬者として確実視されています。

平安時代成立の「扶桑略記」では、天智天皇は馬で山科野に出かけて行方不明となり、沓が見つかった場所に陵を築いたという記載があり、天智天皇の陵墓が山科に築かれた由来ともされているようです。

 

 

「天智天皇 山科陵」

宮内庁設置の看板。

 

 

参道。

 

 

山科陵。

天智天皇(626~672)は第38代天皇。舒明天皇の第二皇子。母は皇極(斉明)天皇。諱は葛城、通称、中大兄。皇極天皇4年(645年)6月、中臣鎌足らと図って乙巳の変を起こし、蘇我宗家を滅ぼします。母皇極天皇が譲位して叔父孝徳天皇が即位。白雉2年(651年)、孝徳天皇は難波宮に遷都しますが、白雉4年、孝徳天皇を難波において、皇極太上天皇、間人皇女(中大兄同母妹/孝徳大后)とともに飛鳥へ戻ります。白雉5年、孝徳天皇は難波で崩じ、皇極太上天皇が重祚、斉明天皇。斉明天皇7年(661年)、白村江の戦に出陣した斉明天皇は筑紫朝倉宮で崩。中大兄皇子は飛鳥へ戻り、即位しないまま称制。天智天皇7年(677年)、近江大津宮に遷都。天智天皇8年、即位。天智天皇9年、日本初の戸籍「庚午年籍」を作成。同年、太政大臣を新設、子の大友皇子を任じます。天智天皇10年10月、病となった天智天皇は同母弟・大海人皇子を呼び後を託すも身の危険を感じた大海人皇子は倭姫王(天智天皇大后)を次の天皇にするように進言して吉野へ籠りました。同12月3日、崩。

 

 

 

御廟野古墳:京都市山科区御陵上御廟野町