山科にある坂上田村麻呂の墓です。

 

 

花木塚と呼ばれる円墳。

栗栖野に葬られたとされる平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂の墓であるとして、明治28年(1894年)、平安遷都1100年事業の一環として坂上田村麻呂公園が整備されました。戦前は、周辺の小学生が武運にあやかるため遠足に来ていたそうです。

大正8年(1919年)、西野山の竹林から木棺墓が見つかり、大刀、鏡、鉄鏃、鉄版などの豪華副葬品が発掘されました。西野山古墳と名付けられ、現在ではこちらが坂上田村麻呂墓として有力視されており、そちらにも碑がたっています。

中臣遺跡が広がる地帯にあり、中臣十三塚古墳群と呼ばれる中臣氏関連の古墳である可能性もあるそうです。

 

 

坂上田村麻呂之墓碑。

 

 

坂上田村麻呂(758~811)は平安時代初期の征夷大将軍。坂上苅田麻呂の子。延暦15年(796年)、陸奥出羽按察使兼出羽守。鎮守将軍。延暦16年、征夷大将軍。延暦20年、桓武天皇の命を受け、4万の兵を率いて蝦夷征討。延暦21年、陸奥国に胆沢城を築きます。延暦22年、蝦夷の酋長・阿弖流為が降伏。田村麻呂は阿弖流為を連れて上洛、助命嘆願しますが許されず、阿弖流為は処刑されました。同年、陸奥国に志波城を築きます。延暦24年、藤原緒嗣により桓武天皇の軍事(蝦夷征討)と造作(長岡京・平安京造営)が民の負担になっているという徳政論争を桓武天皇が受け入れ、長期に及ぶ蝦夷征討は中止されました。延暦25年、桓武天皇崩。同年、中納言。大同4年(809年)、平城天皇が譲位して皇太弟・嵯峨天皇が即位。大同5年、薬子の変に嵯峨天皇の命令で出陣、平城太上天皇に勝利。弘仁元年(810年)、大納言。弘仁2年、粟田口の別宅で死去。

 

 

 

花木塚:京都市山科区勸修寺