明日香にある野口王墓古墳です。

 

 

東西約58メートル、南北約45メートル、高さ約9メートルの八角墳。野口は地名で、王墓は伝承によりこう呼ばれてきたとのことです。

宮内庁により、天武天皇・持統天皇の檜隈大内陵に比定されています。

この時期の古墳は、自己の権力を死後も誇示する目的で生前に築かれることがほとんどでしたが、自身を神と称した天武天皇は死後復活することを信じていたとされ、生前に陵を築きませんでした。遺体は殯宮に安置されていましたが復活することはなく、一年後に築陵開始。天武天皇の皇后・鵜野讃良皇女(持統天皇)の意思が強く働いたとされ、当初より夫婦合葬墓として造られました。持統2年(688年)、檜隈大内陵完成、天武天皇の遺体が葬られます。大宝2年(702年)、持統太上天皇が崩じると、遺言により遺体は火葬され(火葬された天皇はこれが初)、天武天皇が葬られた檜隈大内陵に合葬されました。

藤原定家の日記「明月記」によれば、文暦2年(1235年)、盗掘に遭い、副葬品が奪われます。石棺も開けられて天武天皇の白骨化した遺体が引きずり出され、残っていた白髪が散乱。火葬された持統天皇の骨壺は銀製であったため持ち出され、遺骨は付近に捨てられたと記録されています。

天武・持統天皇陵は、合葬墓である見瀬丸山古墳(畝傍陵墓参考地)とする説もありましたが、石棺が2つあることから火葬された持統天皇の記述と合わないとされてきました。明治時代、京都・高山寺で「阿不幾乃山陵記」が発見されます。文暦2年の盗掘の際、見分を行った朝廷の使者によって書かれた詳細な石室内部の記録であり、これにより野口王墓が天武・持統天皇陵と結論付けられました。比定が難しいこの時代の古墳にあって、被葬者がほぼ確実な古墳となります。

 

 

「天武天皇 持統天皇 檜隈大内陵」

宮内庁設置の看板。

 

 

檜隈大内陵。

天武天皇(?~686)は第40代天皇。舒明天皇の第三皇子。母は皇極(斉明)天皇。諱は大海人。天智天皇3年(664年)、当時称制をしていた同母兄の中大兄皇子が発した冠位二十六階では、大海人皇子が群臣の前で詔を読み上げる役をしています。天智天皇7年、中大兄皇子が即位、天智天皇となります。天智天皇10年11月、天智天皇は子の大友皇子を太政大臣に任じ政権移譲を行ったため身の危険を感じ、天智天皇11年10月、病床の天智天皇に呼ばれた大海人皇子は、大后・倭姫王を次の天皇とすることを提案して吉野へ籠りました。同12月、天智天皇崩。天武天皇2年、吉野で挙兵。近江大津宮へ攻め込み、大友皇子は自害(壬申の乱)。飛鳥へ戻り、後岡本宮で即位。大臣を置かず皇親政治を行います。天皇を神格化。「唐書」によれば天武天皇のとき遣唐使が日本という国号と天皇の称号を唐の皇帝に伝えており、初めて天皇号を使ったとされます。天武天皇2年、娘の大来皇女を伊勢斎宮に任じ、以降、伊勢斎宮は制度化。天武天皇10年、令の編纂を開始(後の飛鳥浄御原令。持統天皇が公布)。天武13年、八色の姓を制定。朱鳥元年(686年)、後岡本宮を飛鳥浄御原宮と改名。同年、崩。

持統天皇(645~703)は第41代天皇。天智天皇の第二皇女。母は蘇我遠智娘。諱は鵜野讃良。叔父・大海人皇子の妃となり、天智天皇元年、草壁皇子を産みます。天智天皇10年、父天智天皇と夫大海人皇子の仲が不穏となると夫とともに吉野へ同行。大海人皇子が壬申の乱で勝利して天武天皇となると、皇后に立てられました。天武天皇が病となり、草壁皇子とともに共同統治者となります。天武天皇崩後、草壁皇子は即位せずに称制、持統天皇3年4月、27歳で早世。同6月、飛鳥御浄原令公布。持統天皇4年、即位。同年、藤原京遷都。持統天皇10年、孫の軽皇子に譲位、文武天皇が即位。太上天皇として文武天皇とともに政務を行います。大宝2年(703年)、崩。

 

 

 

野口王墓;奈良県高市郡明日香村野口