桜井にある山田寺です。

 

 

大化山山田寺という法相宗の寺。

舒明天皇13年(641年)、蘇我倉山田石川麻呂が寺の建造を開始。皇極天皇2年(643年)、金堂上棟。

蘇我倉山田石川麻呂(?~649)は蘇我倉麻呂の子。蘇我馬子の孫、蘇我蝦夷の甥。蘇我宗家に不満があったとされ、中大兄皇子に娘を嫁がせて蘇我宗家討伐に協力。皇極4年、乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺され蘇我蝦夷も自害、孝徳天皇が即位すると右大臣に昇進しました。その後、孝徳天皇に疎まれたとみられ、大化5年(649年)、弟の日向が孝徳天皇に石川麻呂の謀反を密告。石川麻呂は山田寺に立て籠りますが、孝徳天皇の兵に取り囲まれ妻子とともに自害しました。

石川麻呂の死により山田寺の建造は中断されますが、天武朝に再開。石川麻呂の外孫である天武天皇皇后・鵜野讃良皇女(後の持統天皇)が造営を引き継いだ可能性があるそうです。天武5年(676年)、塔が完成。天武天皇14年、丈六仏像が完成。寺号は浄土寺。平安時代末期には多武峯寺(談山神社の前身)の末寺となります。文治3年(1187年)、多武峯寺と対立する興福寺門徒が山田寺に押し入って講堂の本尊・薬師如来像を奪い、興福寺東金堂の本尊とします。応永19年(1411年)、興福寺が戦火で焼かれた際、像も焼かれましたが頭部だけが残り、鋳造仏頭として国宝に指定(山田寺仏頭とも呼ばれ現在も興福寺が所有)。山田寺は明治初期の廃仏毀釈で廃寺。明治25年、跡地に法相宗の大化山山田寺が建立されています。

大正12年(1921年)、国の史跡。昭和27年(1957年)、国の特別史跡。昭和50年、山田寺跡を国有地化。昭和57年、木製の東回廊が倒れたままの状態で発掘されています。

 

 

塔跡。

 

 

金堂跡。

 

 

東回廊跡。

ここから木製の廻廊が倒れた状態で発見されました。

 

 

現在の山田寺本堂。

講堂跡付近に観音堂が建てられています。現在は無住職。

 

 

 

山田寺;奈良県桜井市山田