桜井にある談山神社です。

 

 

飛鳥時代、中臣氏の所領があり、中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変の談合を行ったとされりことから談(かたら)い山と呼ばれ、社名となったといいます。幕末までは神仏習合により多武峯寺という寺でした。

「多武峯寺縁起」によれば、天智天皇6年(668年)、中臣(藤原)鎌足の長男・定恵が父鎌足の墓を摂津安威山より多武峯に移し、十三重塔と堂を建てて妙楽寺と称したのが始まりとします。大宝元年(701年)、境内に藤原鎌足神像を本尊とする聖霊院、延長4年(926年)、総社が創建されます。これらはまとめて多武峯寺と総称され、神仏分離令までは多武峯座主が統括していました。天暦元年(947年)、延暦寺の実性が多武峯座主となり、この頃、延暦寺の末寺となります。このため藤原氏創建の寺でありながら藤原氏の氏寺・興福寺と対立。承安3年(1173年)、興福寺衆徒による焼き討ちに遭います。永享10年(1438年)、大和永享の乱により全山焼失。御神体である大職冠御影は橘寺へ一時避難。豊臣秀長が大和郡山城の鎮守とするため、藤原鎌足神像(大職冠御影)を大和郡山城下に遷座。2年後に帰山しました(大職冠鎌足神社参照)。

慶応4年(1868年)、神仏分離令。明治2年(1869年)、藤原鎌足を祀る談山神社となり、僧は還俗、僧房は破却されます。多くの寺社では廃仏毀釈で仏教関連建造物が破壊されましたが、談山神社では聖霊院は本殿、護国院は拝殿、十三重塔は神廟、妙楽寺講堂は神廟拝殿と名称を変え、仏教施設が現存しています。

神仏霊場巡拝の道37番(奈良24番)。

 

 

けまりの庭。

法興寺(飛鳥寺)の槻の下で行われた蹴鞠で、中大兄皇子の脱げた靴を中臣鎌足が拾い上げたのが両者の出会いだとする故事にちなんで、けまり祭りが行われる庭。

正面は権殿、右奥が十三重塔、右が神廟拝所。

 

 

十三重塔。

享禄5年(1532年)の建造物で、重要文化財。

木造十三重塔としては唯一のもの。

創建当時のものは開基の定恵が建てたといい、神仏分離令以後は神廟と呼ばれます。

 

 

神廟拝所。

寛文8年(1668年)の建造物で、重要文化財。

十三重塔の正面に建ち妙楽寺発祥地であるといいます。神仏習合の時代には妙楽寺講堂でした。かつて釈迦如来像が祀られていましたが、現在は安倍文殊院に移されています。

 

 

楼門。

永正17年(1520年)の建造物で、重要文化財。

 

 

拝殿。

永正17年の建造物で、重要文化財。

神仏習合の頃の護国院。

 

 

本殿。

嘉永3年(1850年)の建造物で、重要文化財。

神仏習合の頃の聖霊院であり、現在も藤原鎌足神像が祀られています。

祭神は、藤原鎌足。

藤原鎌足(614~669)の父は中臣御食子。母は大伴智仙娘。名は鎌子とも。唐より帰還した学問僧・南淵請安に師事、中大兄皇子に接近して蘇我宗家討伐を計画、皇極天皇4年(645年)、飛鳥板葺宮において蘇我入鹿を殺害、その父蘇我蝦夷を自害に追い込みます(乙巳の変)。孝徳天皇が即位すると内臣。大化3年(647年)、大錦冠。白雉5年(654年)、皇極太上天皇が重祚して斉明天皇即位。同年、大紫冠。斉明天皇7年(661年)、斉明天皇が崩じ、中大兄皇子が称制。天智天皇2年(663年)、白村江の戦いで敗戦。天智天皇6年、近江大津宮に遷都。天智天皇7年、中大兄皇子が即位して天智天皇となります。天智天皇8年、山階に狩猟に出かけた天智天皇の供をして落馬。山階の自宅の病床を天智天皇が見舞い、藤原姓と内大臣、大職冠を与えます。これにより鎌足は大職冠と呼ばれ、談山神社の藤原鎌足神像は大職冠御影とも呼ばれます。享年、56歳。

 

 

権殿。

永正年間の建造物で、重要文化財。

神仏習合の頃は常行堂。現在は本殿建て替えの際に御神体を移す権殿として用いられます。

 

 

後醍醐天皇寄進の燈篭。

 

 

 

談山神社;奈良県桜井市多武峰319