花園にある妙心寺です。

 

 

正法山妙心禅寺といい臨済宗妙心寺派大本山。

鎌倉時代、皇統は持明院統と大覚寺統に別れ、執権・北条時宗により両統より10年ごとに交代で即位する両統迭立が成立。延慶元年(1308年)、持明院統より12歳で即位した花園天皇は、10年後の文保2年(1318年)、大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して22歳で上皇となり、離宮の花園萩原殿に移り住みました。建武2年(1335年)、出家。法号、遍行。興国3年(1342年)、花園法皇は離宮の花園萩原殿にこの寺を創建。帰依する大徳寺開山・宗峰妙超の推挙によりその弟子・関山慧玄を開山に迎えます。創建時は大徳寺の影響下にあり、大徳寺とともに室町幕府の影響力を受けない林下の寺でした。

妙心寺6世・拙堂宗朴は守護大名大内義弘の帰依を受けていましたが、義弘が室町幕府3代将軍・足利義満に疎まれ、応永6年(1399年)、応永の乱で滅ぼされると、拙堂宗朴もこれに連座。妙心寺は青蓮院門主の義円(後の室町幕府6代将軍・足利義教)に与えられ、拙堂宗朴は青蓮院に幽閉。義円は妙心寺を南禅寺の廷用宗器(義満の弟)に与え、廷用宗器は妙心寺を龍雲寺と改名、妙心寺は断絶。廷用宗器から受け継いだ根外宗利は尾張国瑞泉寺から日峰宗舜を呼び中興、永享4年(1432年)、妙心寺は復活します。

応仁の乱で焼失。管領・細川勝元の帰依を受けた妙心寺9世・雪江宗深が復興。雪江宗深の4人の弟子が龍泉派、東海派、霊雲派、聖澤派の四派を起こし、玉鳳院を除く妙心寺の塔頭・末寺はすべて妙心寺四派のいずれかに所属します。永正6年(1509年)、紫衣勅許。大徳寺と同等の権利を有したことで創建以来影響を持った大徳寺から独立。同年、妙心寺11世・悟渓宗頓に帰依していた利貞尼(美濃加納城主・斎藤利国正室)が仁和寺領であった一帯の土地を購入して妙心寺に寄進、境内が大規模に拡張。戦国大名が帰依して塔頭を建てたほか、千利休切腹により大徳寺と疎遠になった豊臣秀吉が鶴松葬儀を妙心寺で行い庇護しました。明治初期の廃仏毀釈により塔頭が統廃合しています。

 

 

勅使門。

慶長15年(1610年)の建造物で、重要文化財。

 

 

三門。

慶長4年の建造物で、重要文化財。

 

 

仏殿。

文政10年(1827年)の建造物で、重要文化財。

 

 

法堂。

明暦2年(1656年)の建造物で、重要文化財。

 

 

経蔵。

寛文13年(1673年)の建造物で、重要文化財。

 

 

浴室。

明暦2年(1656年)の建造物で、重要文化財。

明智光秀は妙心寺塔頭・太嶺院(明智光秀創建。廃寺)を宿所とした際に寄進料を納めました。光秀死後、太嶺院住職・崇密が光秀から受け取った寄進料で風呂を建てたことから明智風呂の名があるそうです。現在のものは再建。

 

 

 

妙心寺;京都市右京区花園妙心寺町64