花園にある玉鳳院です。

 

 

妙心寺の塔頭。

妙心寺開基・花園法皇の居所跡。

延慶元年(1308年)、12歳で即位した花園天皇は、文保2年(1318年)、両統迭立により大覚寺統の後醍醐天皇に譲位、22歳で上皇となると、洛西の花園萩原殿に移り住みます。建武2年(1335年)、出家。法号、遍行。興国3年(1342年)、花園法皇は、関山慧玄を開山として花園萩原殿を禅寺に改め、妙心寺を創建。この地は花園法皇が居住した禅宮御殿であり、花園法皇は正平3年(1358年)、この地で崩。禅宮御殿は妙心寺塔頭・玉鳳院に改められ花園法皇の塔所となりました。妙心寺最古の塔頭であり、最も神聖な場所とされます。妙心寺の塔頭・末寺の中で唯一、妙心寺四派のいずれにも所属せず、法要は他の塔頭が持ち回りで行います。

境内には武田信玄、勝頼、信勝、信豊、織田信長、信忠の供養塔があります。天正10年(1582年)3月12日、織田信長に攻められた武田勝頼は、嫡子信勝、継室北条夫人とともに自刃、甲斐武田氏は滅亡。勝頼、信勝、戦死した信豊(信玄の甥)の首は都に運ばれ、一条大路辻で晒し首にされます。妙心寺58世・南化玄興は甲斐武田家菩提寺・景林寺住職快川紹喜の弟子であり、勝頼、信勝、信豊の首を引き取りました。このため玉鳳院境内に信玄、勝頼、信勝、信豊の供養塔が建てられています。甲斐武田を討った織田信長もまた、同6月2日、本能寺の変によって横死。同9月11日、妙心寺において、柴田勝家の正室で信長の妹の市を施主とする信長の百日法要が行われます。同10月12日、羽柴秀吉が大徳寺において信長葬儀を決行。妙心寺と大徳寺の双方に信長の菩提寺である塔頭・総見院が建てられます。妙心寺総見院は廃絶、境内にあった信長・信忠供養塔が玉鳳院に移されたため、敵対した武田と織田の供養塔が同境内に隣接してあるそうです。

天正19年、豊臣秀吉が3歳で夭折した鶴松の葬儀を妙心寺で執り行っており、玉鳳院には祥雲院廟所もあります。

通常非公開。

 

 

四脚門。

 

 

玉鳳院:京都市右京区花園妙心寺町60