南禅寺福地町にある南禅寺です


南禅寺

 

瑞龍山泰平興国南禅禅寺といい、臨済宗南禅寺派大本山。

文永元年(1264年)、後嵯峨上皇がこの地に離宮・禅林寺殿を営みます(付近に禅林寺(別名;永観堂)があったことから)。禅林寺殿は亀山天皇に譲られ、弘安10年(1287年)、亀山上皇は禅林寺殿内に持仏堂・南禅院を創建。南禅とは南宋の禅の意味であると言います。

正応2年(1289年)、亀山上皇は南禅院で出家して法皇となります。正応4年、亀山法皇は東福寺の僧・無関普門を開山として禅林寺殿を寺に改め、龍安山禅林禅寺としました。勅願の禅寺はこれが初。創建の年、開山・無関普門が80歳で入寂したため、2世規庵祖円によって伽藍が整えられます。正応年間、規庵祖円が境内の持仏堂・南禅院にちなんで寺号を瑞龍山泰平興国南禅禅寺と改めました。

建武元年(1334年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府が定めた五山の制を改め、京都五山と鎌倉五山を認定、南禅寺は京都五山の第一に位置付けられます。至徳3年(1386年)、室町幕府3代将軍足利義満が相国寺を京都五山の第一としますが、このとき南禅寺を別格上位として京都五山と鎌倉五山の上に位置付けました。明徳4年(1393年)、大火により焼失。再建されたものの文安4年(1447年)、再び大火により焼失。間もなく応仁の乱が勃発、応仁元年(1467年)、背後の南禅寺山に赤松氏が陣を置き、南禅寺は戦火によって伽藍をことごとく焼失しました。

慶長10年(1605年)、南禅寺260世となった以心崇伝は、江戸幕府初代将軍・徳川家康の参謀となって黒衣の宰相と呼ばれて権力をふるい、幕府からの寺領寄進があったことから南禅寺は復興します。明治維新後の廃仏毀釈で塔頭の多数が廃絶。

平成17年、南禅寺境内は国の史跡に指定されています。


南禅寺

 

三門。

重要文化財。

寛永5年(1628年)、藤堂高虎の寄進によるもの。


南禅寺

 

法堂。

明治42年の建造物。


南禅寺

 

玄関。


南禅寺

 

方丈。

国宝。

大方丈とその背後の小方丈からなり、こちらは大方丈。

大方丈は、慶長16年(1611年)、女院御所の対面御殿を賜り移築したものと伝わります。


南禅寺
南禅寺

 

方丈庭園。

国の名勝庭園。

虎の子渡しの庭。

小堀遠州の作庭と伝わる枯山水庭園。

大方丈の前にあります。


南禅寺

 

小方丈庭園。

如心庭とも呼ばれる枯山水庭園。

昭和41年の作庭で、庭石を心の字に配置しているそうです。


南禅寺
 

窮心亭。

茶室。

昭和43年、寄進によるもの。

南禅寺

 

不織庵。

茶室。

昭和29年、寄進によるもの。

 

 

 

南禅寺;京都市左京区南禅寺福地町86