阿弥陀ヶ峯にある豊国廟です。

豊国廟

 

阿弥陀ヶ峯の頂上にある、豊臣秀吉の廟所。

慶長3年(1598年)8月18日、太閤・豊臣秀吉が伏見城で没。慶長4年4月13日、遺体は遺言により阿弥陀ヶ峯頂上に葬られます。同16日、後陽成天皇が「豊国大明神」の神号を与えて秀吉の廟所は豊国廟となり、阿弥陀ヶ峯中腹に豊国大明神を祭神とする豊国社が創建されます。当時、阿弥陀ヶ峯西面は秀吉創建方広寺の広域な境内地であり、大仏殿、豊国社、豊国廟が阿弥陀ヶ峯の西面一帯に並んでいました。

慶長20年、豊臣宗家が滅亡。徳川家康の命により豊国大明神の神号は廃止され、豊国社は神宮寺とともに廃止となります。阿弥陀ヶ峯山上の豊国廟は破壊され、秀吉の遺体はそのまま地中に放置されました。豊臣家滅亡後の方広寺を任された妙法院によって豊国廟や豊国社への参道は新日吉社が移転して塞がれ、以降は参る人もいなくなったといいます。

慶応4年(1868年)、明治天皇が豊国社の復興を命じ、豊国大明神の神号が復活。明治13年、方広寺大仏殿跡地に豊国神社が再建されます。

明治23年、豊国会が結成され、豊臣秀吉没後300年にあわせて豊国廟を再建するため全国から募金を募ります。明治30年、募金をもとに阿弥陀ヶ峯山上に豊国廟を再建。この工事の際、阿弥陀ヶ峯頂上の地中より秀吉の遺体と推測される瓶に納められた棺が発見され木棺が開けられたものの、保存状態は悪く遺体は崩れ、再び埋め戻されました。明治31年、再建された豊国廟において豊太閤三百年祭が行われ、茶の湯を愛した秀吉にちなんで各家元による大茶会が開かれました。

現在、豊国廟は豊国神社の境外地として豊国神社が管理を行っています。また、京都・寺町の誓願寺塔頭・竹林院にあった秀吉の側室・松の丸殿(京極竜子)と、秀吉の孫・国松の供養塔が移されています。


豊国廟

 

豊国廟の参道を登っていくと、中腹に鳥居が見えます。

この鳥居のある階段を上ると平坦な場所があり、太閤坦と呼ばれています。豊臣期の豊国社があった場所だとされています。


豊国廟

 

太閤坦の料金所を過ぎると、阿弥陀ヶ峯頂上の豊国廟までほぼ直線、485段の石段が続きます。


豊国廟

 

中門までの階段は、広い階段と狭い階段が交互にくる設計になっています。明治30年、豊国廟を復興した時、巨大な五輪塔を馬で引き上げたため、馬の歩幅にあわせているとのこと。


豊国廟

 

中門。


豊国廟

 

中門から先は幅が狭くよりより急な階段が廟所まで続きます。


豊国廟
豊国廟

 

豊国廟。

豊臣秀吉の廟所。明治時代の再建で、伊藤忠太の設計。

豊臣秀吉(1537~1598)は安土桃山時代の関白。木下弥右衛門の長男。母はなか(大政所)。当初は木下藤吉郎と名乗り、「太閤記」などによれば複数の仕事に就いた後、20代半ば頃から尾張の戦国大名・織田信長に出仕。機転により取り立てられます。天正元年(1573年)の小谷城攻めでは浅井長政の急所を突いて手柄を立て、信長から北近江三郡を与えられて長浜城を築き、城持ち大名となります。この頃、名を羽柴秀吉と改めます。天正7年頃からは織田軍の中国攻めを担当、天正8年、服属した黒田官兵衛から献上された姫路城に拠点を移し大規模改築。天正10年、本能寺の変が勃発。戦闘中の毛利と和議を結んで中国大返しを行い主君・織田信長の敵、明智光秀を討ちます。天正11年、織田家筆頭家老・柴田勝家を破り、天下人に名乗りを上げました。天正13年、関白就任。天正14年、正親町天皇より豊臣姓を下賜され、豊臣秀吉となります。天正15年、洛中に聚楽第完成、移住。天正18年、小田原城攻めにおいて後北条氏を滅ぼし、天下統一。同年、秀吉は関白と聚楽第を甥で養子の豊臣秀次に譲り伏見城に隠居。その後も太閤として実権を持ちました。文禄元年(1592年)、朝鮮出兵を開始(文禄の役)。文禄2年、お拾(後の豊臣秀頼)誕生。文禄4年、豊臣秀次が高野山で自刃。慶長2年(1597年)、再度、朝鮮へ出兵(慶長の役)。慶長の役の最中、慶長3年8月18日、伏見城において62歳で没。


豊国廟

 

太閤坦にある松の丸殿(秀吉側室)と国松(秀吉孫)の供養塔。

豊国廟

 

秀吉の側室・松の丸殿の供養塔。

京極竜子(松の丸殿;?~1634)は京極高吉の子。母は浅井マリア。京極家は北近江の大名でしたが家臣の浅井氏に下剋上されてその庇護下に入り、浅井氏が織田信長に滅ぼされた後は高次(竜子の弟)を信長の人質に出し、近江国奥島5000石を受けていました。竜子は若狭武田氏の武田元明に嫁ぎますが、かつて若狭守護であった若狭武田氏もまたこの頃は織田信長家臣・丹羽長秀の配下で知行3000石を受けるのみでした。天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると夫元明や弟高次は明智光秀に味方し、丹羽長秀が城主を勤める佐和山城を落とします。光秀が羽柴秀吉に敗れると、夫の元明は弁明に訪れた丹羽長秀のもとで殺害され、竜子は秀吉の側室となります。弟の高次は助命され、大名に取り立てられました。竜子は淀殿と共に秀吉に最も気に入られた側室で、秀吉の小田原城攻めや名護屋城にも同行。醍醐の花見では秀吉、北政所と回った盃の順を淀殿と争ったと言われます。関ヶ原後、竜子は出家して寿芳院となり、京・西洞院に住みます。豊臣秀頼が側室との間に儲けた国松・奈阿姫の2人の子は徳川家を憚り京極家家臣の家で養育されたことから、竜子も養育に関わったとされます。慶長20年、大坂夏の陣で豊臣宗家が滅亡。豊臣秀頼と淀殿が自害。8歳の国松は家康の命により六条河原で処刑されます。国松の遺体は竜子が引き取り、帰依する誓願寺の塔頭・竹林院に埋葬。寛永11年(1634年)、竜子が没すると、遺言により竹林院の国松の隣に葬られました。

 

豊国廟

 

国松の供養塔。明治時代に新造されたもの。

豊臣国松(1608~1615)は、豊臣秀頼の長男。母は側室・伊茶。秀頼の正室・千姫(江戸幕府2代将軍徳川秀忠の長女)を憚り、京極家家臣の家で育てられたと言います(淀殿の妹初が京極高次の正室であった縁か)。慶長20年5月8日、大坂夏の陣において、徳川家康に攻められ父豊臣秀頼が自刃。国松は京極忠高によって家康に差し出されます。家康によって国松の処刑が定まり、同23日、京で市中引き回しの上、六条河原に置いて斬首。享年8歳。

 

 

 

豊国廟;京都市東山区北日吉町