大和大路正面にある方広寺です。
天台宗山門派の寺。
天正14年(1586年)、関白豊臣秀吉は、東大寺合戦で破損した南都・東大寺大仏に代わり、新たな権威の象徴として京に大仏を建てることを発願。同年、聚楽第の建造と合わせ、東山の地に巨大な廬舎那仏像の建造を開始します。往時の京の大仏(方広寺)の敷地は西は三十三間堂西、東は阿弥陀ヶ峯の西面全体、北は現在の方広寺北端、南は三十三間堂南端に至る広大なものでした。天正16年、豊臣秀吉が出した「刀狩令」では、百姓から集めた武器は大仏の釘や鎹にするので来世まで救われるとしています。
天正19年より大仏殿の建造を開始、文禄4年(1595年)に完成。方広寺別当には聖護院道澄法親王が迎えられ、寺領1万石とされます。同9月25日には大仏経堂において秀吉主宰の千僧供養会が行われました。このときの大仏は木製で漆喰で固めた上から漆を塗って金箔を貼る工法で、高さは東大寺大仏より大きい19メートルありましたが、文禄5年、慶長伏見地震により建造中であった大仏が倒壊。秀吉は大仏開眼供養を急ごうと、甲斐善光寺より善光寺如来(もとは信濃善光寺にありましたが武田信玄が甲斐善光寺に移す)を誘致。しかし、秀吉が体調を崩し、善光寺如来の祟りと言われたために信濃善光寺に返却。秀吉は同8月18日に没しますがその死はしばらく伏せられ、同22日、大仏のない方広寺で大仏開眼供養が行われました。
秀吉死後、慶長5年より徳川家康の勧めにより、豊臣秀頼によって方広寺大仏の造立が再開されます。今度は銅製で造られましたが、慶長7年、鋳物師の過失により銅が融解して出火、大仏殿もろとも焼失。慶長15年より再度大仏と大仏殿の再建が行われ、慶長17年に大仏殿と銅製大仏が完成。慶長19年には梵鐘も完成しましたが、同7月26日、突然、徳川家康が大仏開眼供養の延期を求めます。家康は、方広寺梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が家康の文字を分断し、豊臣を君主とするもの(徳川の天下を認めない意思表示)だとして大坂の役のきっかけを作り、慶長20年5月、家康は豊臣宗家を滅ぼします。
豊臣家滅亡により、方広寺別当であった道澄法親王(照高院に移っていました)は罷免され、方広寺別当は妙法院門主が兼ねることとなります。京の大仏と呼ばれる広大な区域にあった豊国廟や豊国社も破壊され、豊臣色は薄れます。ただ、妙法院配下で大仏や梵鐘はそのまま残されていました。
寛文2年(1662年)の地震で大仏が破損、木造で造り直されます。寛政10年(1792年)、大仏殿に雷が落ち、大仏殿、大仏、楼門、本堂が焼失。その後は大仏殿が再建されることはなく、天保年間に愛知県の有志が肩から上の木像大仏を縮小して造り、大仏殿跡の北西に仮殿を建てて寄進。この大仏も昭和48年の火災によって仮殿と共に焼失しました。
明治3年、恭明宮(東京遷都の際に明治天皇が京都に置いていった宮中にあった歴代天皇の位牌や京都に残った女官たちの住まいとしたもの。現在の京都国立博物館の場所)が建てられるによって寺地は縮小。明治13年、大仏殿跡地に豊国神社が再建されるによって更に縮小しています。また、近代に入り、妙法院から独立しています。
本尊・廬舎那仏像を安置します。
方広寺では4度大仏が造られましたが現存せず、現在は2回目に造られた大仏を10分の1の大きさで模したという5度目の本尊になっています。
大黒天堂。
秀吉の念持仏と伝わる大黒天像を安置します。
鐘楼。
創建当時の鐘楼は今よりも南、大仏殿南西付近にありました。明治初期、恭明宮が建てられる時に土地が収公されて鐘楼は壊され、梵鐘のみがこの辺りに雨曝しになっていました。明治時代、現在の鐘楼が再建されました。
梵鐘。
重要文化財。
天正19年(1614年)、京都三条釜座の鋳物師・名越(名古屋)三昌が鋳造。鐘の上部に文英清韓の起草による鐘銘が刻まれています。「方広寺鐘銘事件」当時のもの。
現役の鐘で、大晦日には除夜の鐘が突かれます。
「国家安康」「君臣豊楽」の文字が白く囲まれています。
旧方広寺大仏殿遺物。
こちらは豊臣秀頼再建大仏殿の柱にはめられていた鉄製金輪。
大仏殿緑地。
2000年の発掘調査により、大仏殿があった場所は確定しています。現在の方広寺の南東、現在の豊国神社の東隣にありました。発掘された遺構は埋め戻され、緑地公園として整備されています。大仏殿基壇、大仏基壇が2段になっており、現在も高低差がみられます。
方広寺大仏殿の周囲を巡っていた石塁。秀吉が諸大名に命じて各地から巨石を献じさせたもの。西側と南側の一部が現存しています。
方広寺;京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2