誓願寺~女人往生の寺 | 古都の礎

古都の礎

歴史好きが綴るブログです

新京極にある誓願寺です。

 

 

誓願寺は、浄土宗西山深草派総本山。

天智天皇の勅願により、恵隠が開山となって大和国に創建されたとされます。当初は、三論宗の寺でした。その後、興福寺の末寺となって法相宗に改宗。長岡京遷都によって山城国乙訓郡に移された後、平安京遷都によって深草に移転。女人往生の寺として知られ、清少納言や和泉式部はこの寺で出家したと言われます。平安時代末期、興福寺の蔵俊が法然に帰依したことから浄土宗に改宗。鎌倉時代初期、京・一条小川の誓願寺町に移転しました。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の都市改造により、誓願寺は現在地に移転。秀吉の側室・京極竜子(松の丸殿)が帰依したことから秀吉によって広大な敷地が与えられ、南は六角通、北は三条通、西は寺町通までの6000坪の境内に、竜子が寄進した大伽藍が建ち並びました。誓願寺塔頭・竹林院(明治6年に廃寺、誓願寺塔頭・頂源院に統合)には明治初期まで京極竜子と国松(豊臣秀頼遺児)の墓がありましたが、現在は豊国廟に移されています。

江戸時代初期、誓願寺55世・安楽庵策伝が書いた笑い話を集めた説話集「醒酔笑」は落語の先駆といわれ落語発祥の地と呼ばれます。当時、広大な境内には多くの見世物小屋が開かれ芸事成就の寺として落語家や舞踊家が扇を奉納した扇塚があります。江戸時代の天明の大火で主要堂宇が焼失。幕末の禁門の変後のどんどん焼けで全焼。明治5年、京都府の政策により境内に新京極通が開通、歓楽街が造られたことにより塔頭は統廃合、境内は収公されて寺域は縮小しました。

明治7年、どんどん焼けで失われた本堂の代わりに、廃仏毀釈で荒廃していた大通寺の本堂が移築されます。この本堂は昭和7年に焼失。その後長らく仮本堂でしたが、昭和39年、鉄筋コンクリートで再建されています。

明治9年、浄土宗西山派の北本山となりますが、大正8年、浄土宗西山派は浄土宗光明寺派(現在の西山浄土宗)、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派に分離。誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山となって現在に至ります。

新西国三十三観音霊場15番札所。法然上人二十五霊場20番札所。洛陽三十三観音霊場2番札所。

 

 

本堂。

昭和39年の建造物で、鉄筋コンクリート製。

本尊・阿弥陀如来像を安置します。

この本尊は、誓願寺の本尊が禁門の変後のどんどん焼けで焼失後、神仏分離令により仏教関連物が破壊された石清水八幡宮より移されたもの。

脇仏として十一面観音菩薩像を安置。この十一面観音菩薩像は一言で願いを聞き届ける一言観音菩薩とも呼ばれ、もとは付近にあった長命寺(一言寺)の本尊でしたが、廃仏毀釈で長命寺が廃寺となった後、誓願寺に移されました。

 

 

鐘楼。

 

 

扇塚。

 

 

 

誓願寺;京都市中京区新京極通三条下る桜之町453