粟田口にある青蓮院です。

 

 

天台宗の寺。

最澄が天台宗比叡山延暦寺を開いた際に比叡山に設けた僧坊の一つ、青蓮坊が始まり。青蓮坊は比叡山東塔の高僧が住む僧坊となりました。平安時代末期、青蓮坊に入った行玄(関白藤原師実の子)が粟田口三条白川に青蓮坊の里坊を置きます。行玄に帰依した鳥羽上皇が、自身の第七皇子覚快法親王を行玄の弟子とし、このときに青蓮坊は青蓮院と改められたといいます。幕末まで皇族や摂家の子弟が住職を勤める門跡寺院であり、三千院妙法院とともに天台三門跡の一つとして高い格式を誇りました(これに曼殊院毘沙門堂を加えて天台宗五箇室門跡とも)。粟田御所の名があります。

青蓮院歴代門主には、「愚管抄」の筆者として知られる慈円(関白九条兼実弟)、青蓮院流を創始した書道家として知られる尊円法親王(伏見天皇第六皇子)、室町幕府6代将軍足利義教となった義円などがあります。

鎌倉時代末期、青蓮院里坊は、白川の氾濫を避けるため粟田山の高台にあった十楽院を統合して現在地に移転。比叡山上の青蓮院本坊は、青蓮院門主の修行の場として存続しましたが、室町時代に焼失後は再建されず、里坊のみが今日まで残りました。

慶長8年(1603年)、徳川家康が青蓮院の南隣にある浄土宗知恩院を、徳川家菩提所並びに有事の徳川軍駐屯地として大幅拡張したため寺地を割譲され縮小。天明の大火の際には後桜町上皇の仮御所となっています。

近畿三十六不動尊霊場19番札所。

 

 

長屋門。

江戸時代、明正天皇旧殿の門を移築したもの。

 

 

大玄関。

 

 

本堂。

本尊・熾光盛如来曼荼羅を安置。

創建以来、本尊熾光盛如来曼荼羅は何度も焼失し、現在の本尊は安土桃山時代、豊臣秀吉が復元奉納したもの(通常非公開)。
 

 

宸殿。

門主が法要などを行う建物。

もとは東福門院(後水尾天皇中宮徳川和子/江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女)旧殿が移築されていましたが、明治26年に焼失。現在のものはそれ以降の再建です。

 

 

小御所。

門主の居間として使われた建物。江戸時代、天明の大火で御所や仙洞御所が焼失した際には後桜町上皇の仮御所となりました。当時のものは明治26年に焼失し、現在の小御所は江戸時代中期に建てられた別の建物を移築しているそうです。

 

 

一文字型手水鉢。

豊臣秀吉の寄進によるものとされているそうです。


 

相阿弥の庭。

室町時代、相阿弥によって造られたとされることからこの名があります。

龍心池を中心とした池泉回遊式庭園。

 

 

好文亭。

茶室。

天明の大火で仙洞御所が焼失したため青蓮院に避難した後桜町上皇が学問所としたところ。当時のものは焼失、現在のものは平成7年の再建。

 

 

高台にある日吉社。

古くは三条岡崎にあり、日吉七社の一つ、十禅師社を勧請したもの。もとは十禅師社と称しており、三条岡崎には十禅師辻という地名が残ります。源義経が十禅師社の前で吉次と待ち合わせ、粟田口を通って奥州へ下ったという伝説があります。荒廃後、江戸時代初期、この地に移され再興されたそうです。

 

 

 

青蓮院;京都市東山区粟田口三条坊町69-1