愛と平和の弾薬庫 -13ページ目

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

貧しいという状況は、ハタチの頃は常にそこにあって、

なのに俺はそれにどうしても慣れることができず、

いつも泣きたい気分に包まれていた。

にもかかわらず決して絶望しなかったのは、別に

好きなロックとつねに語り合っていられたからでも、

愛を感じられる存在が初中終電話をかけてきたり、駆けつけてきたりしたからじゃなかった。

とりあえず常に,働く場所が得られていたからだ。

それほど体力も必要とせず、バンドもやめないですむような、

自分に適度に「合っている」仕事が目をさませばそこにあったからだ。


それが手に入れられない二十代の人間が今は巷にごろごろいるらしい。


えり好みをしなければ仕事は求人数より上回っていてあぶれることはない、

とおっしゃる人もいる。

そういう人は自分がやっている仕事を二十代であぶれている人たちに与えて、

自分はなんでも1から始められる人なんだろうと思う。

じゃなけりゃそんなことは言えるわけがない。


個人が貧しいことと、社会が貧しいことはイコールなんだよな、と思う。


やりたい仕事が見つからない、見つかっても紛れ込めない、

だから専門学校や大学に行く。ぶらぶらしている。

親が働いて学費を捻出する。そのためには母親もパートに出る。

家ではぶらぶらしている子供がゲームをしている。

街に出てポケモンGOに熱中する。パチンコに行ったりもする。

働いていて一人暮らしだったのが仕事をなくして再就職できない。

金がなくなる。でも欲しい。当然、欲しい。必要だから。何か食わなくちゃならないから。

絶対、欲しい。でも仕事はない。なら奪う。道端で、人んちに入って、etc.。


貧しさは、政治から、社会情勢から、世界情勢から、

家庭の無人化から、愛の迷子化から、個人の尊厳から、若い精力から、

いろんな方面から、そこらじゅうの人たちを追い込んでいく。


140.000円の給料で、えへらえへら、いつまでもホッとしているのだ、俺は。


↓こんな奴らと,一緒に、えへらえへら、と。







今朝の揺れは、なんとなく今にもさらなる「グラッ」が加わってきそうな

あの時の揺れにすごく似てたね、なんて会話がそこここで

きっと今日は聞かれたんだろうなあ、

とか思いつつ、


シングルレコードの袋に集合願った。


だって今、あまりにレコード屋さんが減ってしまって、

むかしあんなにあった「町の小さなレコード屋」さんたちが

あまりにも懐かしいから。



hamano  

よく覚えていない「ハマノ」


haga  

「俺たち」がレコードを買うったら仙台駅前、エンドーチェーンの隣のプレイビル1階、

ぐぐっと奥に入ったハガ楽器でした。

haga22 

ハガ楽器の袋がちょっと派手になりまして。

saitoh  

確か、オノ楽器と隣り合っていたサイト―楽器。つうか記憶がいまいち。

sanritsu  

誰でも知ってるサンリツ。

hogakudo  

全然覚えてない邦楽堂。(中学、高校時代、長町になんて行ったことなかったしなあ)

ほかにもたくさんのレコード屋があった。

誰も知ってるヤマハから今でもあるらしい「ディスクノート」。

でも袋も何も残ってないので覚えてるったら「オノ楽器」だけである。


懐かしさに生きることに決めた(?)わたしに、

みなさん、情報を!


喫茶店なんかの懐かし話も好きです。


どこに行こうか、というのはかなり重大な問題だ、と言っても実際にどこかに向かう、

とか言うんではなくて、まあ、人生の方向性の問題。


この時、金というのが実に大きな引き金的役割をはたす。

金がない、というのはさらに大きな引き金になる。

ということが俺にはわかっている。

だからもしあした、タクシーの運転手がコンビニに強盗に入ったとか聞いても、

俺は全然驚かない。まあ、そういう選択肢は大いにあるよね、と思うだけだ。


俺だって、もし一人暮らしだったら、ということである。

別に気取った文学的気分でもなんでもなく、

先月の140.000円少々という給料を、いつもより多いと感ずる、という話です。

いつもより多くて、これでホッとしてるんだから、

それはそれで幸せな人間じゃあるが、やはり、まずい。

とってもまずいっす。


といふタクシーの本音日記だよ。

荒木ガメラの部屋にはパソコンなんてものはない。

画面がついた物と言ったら、一万なんぼで買った激安液晶テレビがあるだけだ。

一万なんぼと言ったってバカにはできない。

きっちり32インチあるのだから。


録画もできりゃあな、とは思うが録画用HDを買う金など荒木ガメラにはない。

そりゃあ今時一万もしないで買えるHDだから買おうと思えば買えないことはまったくない。

ただそれ以前に金を使うべき方向性が、彼の場合そっちに向かわないだけのことだ。

つまり、録画用HDよりもギターの弦。


そんな彼だから連続テレビドラマなんてのとはほとんど縁がない。

必要ともしていない。

でも買ってそこにあるくらいだからスイッチぐらいは入れる。

ある日、仕事の現地調査で県北の山村から遅く帰った夜、なにげに

彼はテレビのリモコンの赤いボタンを押した。

数秒後に電機メーカーのロゴが画面に、そしてその顔はボーっと彼の目に前に現れた。


止まってる、と荒木ガメラは思った。


顔が止まってる。

なのに心が動いている。

それがビンビン伝わってくる。

ボッとしてるのに、ピリッとしてる顔。


女の子だった。

居酒屋でバイトをしている女の子が、マンションを買おうとしている話だった。


コンビニで買ってきたハンバーグ弁当は冷め始めていた。

缶ビール(正確には新ジャンルとか言うやつ)と一緒に、そいつを腹に収めながら、

荒木ガメラは表情に乏しい、なのに気持ちの動きが息苦しいまでに伝わってくる

その女の子のドラマを見つめた。


あれみたいだな、と荒木ガメラは思った。

「きのうのカレー、あしたのパン」とか「レンタネコ」とか「かもめ食堂」とか。


なっちゃんに教えてあげよう。まだ8回のうちの3回だし。


ソーヤは、なんとなく、もう見てる気がする。




ずいぶん前になっちまったけれど、「シン・ゴジラ」って映画を見に行った。

映画館で映画見るなんて、何年ぶりだろう。

夫婦二人で2,000円なんてシステムがなけりゃ、この映画も見なかったと思う。

そんぐらい今のタクシーの運ちゃんは貧乏です。

つうか少なくとも隔日勤務(昔ながらの朝から朝までの勤務)の俺は金ねーんである。


なんてこたどうでもいい。「シン・ゴジラ」である。


パンダおんつぁん(うちの奥さんには時と場合によっていくつかの名前を持つ)は見終わった瞬間、

わたしはだめだ、このゴジラは、と言った。


俺は答えを保留した。なぜなら即座に答えが出せない愚図だから。


映画を見て2ヶ月、やっと結論が出ました、みなさん。


俺が見たい「ゴジラ映画」はこういうやっちゃ↓



kinngoji



すなわち、奇想天外、どうなってんじゃ製作者の頭ん中は!?的ゴジラ映画だけが、

俺たちのゴジラなのである。

少なくとも俺とパンダおんつぁんにとっては。


ゴジラが出てきて街がぶっ壊れてパニックになってなんて、


当たり前じゃん。


当たり前の話を、俺たちゃゴジラ映画には求めないのである。決して。


風よ吹け、呼べよ嵐!ミニラも出てきてこんにちわ、が見たいのだ。


まあ、平成生まれの方々向けに一発原点回帰しておきたかったんだろうけどね。

でもまあ迫力はありました。ゴジラになる前の変なギョロ目はともかく。


さあ、東宝さん!IMAXで過去のゴジラ作品を上映するこった!

ぜって、人入ると思うけどね。


よろしく!

アメリカでどんな下種なお方が大統領になろうと、


それで株が上がろうが下がろうが、


円高になろうが円安になろうが、


これからも、今も、これからも、


おれたちゃおれたちの生き方をやってくだけなんだわなあ、


間違いなく。




                      

おっと、ここは左だっけね、なんて50メートル手前からとっくにわかってたことを

頭ん中でわざとらしく口ずさみ、わたしは左へハンドルを切ったのであったが、

うむ、自転車。チャリさんがあっち、右視界のはしからすっ飛んでくる。

まあ、すぐに通り過ぎてくれるだろう、とハンドルをゆったり握り直しつつ、

左は? と、ぐいと左に首をひねれば、はい、ばあちゃんの登場。

とか思ってたら今度はあっちからBaby Carの参上。キンキン頭のヤンママが。

そしてさらには……と、今日も横断歩道は大盛況なのだが、しかし、


お前はどこから!?


右からやって来るサラリーマンコンビの姿の前に突然、車。


右折車である。わたし左折車の前に、何やら神妙に語り合いつつやってくる

サラリーマンズとわたしのあいだに右折車。

すなわち左折車たるわたしより前にこの交差点を通過しようっつー魂胆。


左折車優先の理由をまったく解していない足らん坊とは、

お前のこったぜ。


わたしの視界に突然割り込んできたことで、

左折車優先の理由は歴然。


すなわち、わたしの視界にはあんたの存在はまったくなかったのだから。


わたしには、

横断歩道上の人物たちの完全なる通過を見届ける「義務」があるのである。

そういう自動車運転者の「義務」があるのである。

右耳の後ろのほうから、いいか、もう一回言うぞ、


右耳の後ろからやってくるあんたなんぞ、俺にどうやって見ろってんだ?


そりゃあ、首をぐいと回せばあんたの姿は認められただろう、

がしかし、その時、右耳後ろからやってくるあんたに気を取られたわたしは

完全なる横断歩道上の方々の庇護者となれるだろうか。

もしかしたら最後の最後、歩行者信号がピコピコ言い始めた時に突っ込んで

きたほっそいタイヤのバイシクルを見落としたりしてたかもしんないのだ。


さあ、突然登場の右折車くんよ、君にもわかっただろう。

君には確かにすべてが見えていた。少なくともわたしよりは広い視界で

横断歩道上の様子が見えていた。だから突っ込んでこれたのだ。

でも俺にはあんたは見えてなかった。

全然見えてなかったんだ。だって横断歩道上が今日も大盛況だったから。


さあ、もう金輪際、左折しようとしているわたしたちの前には現れないでくれ。


わかったよな。





ベスト・アルバムってのはぜんぜんベストなんかじゃない、としか

荒木ガメラには思えなかった。

Greatest Hitsなんか絶対買っちゃだめだ。

そんなのを買うなんて、ラジオから流れてくるその人の歌を聴いてるのと

おなじだから。

一枚のアルバムにはそれを作ったときのアーチストのすべてが詰まっている。

その表現がアーチスト本人に正直に密着してればしてるほど、

そいつはベストに近くなる。

そこには血の流れがあって、感情の微妙な揺れがある。

一枚のアルバムに収まったそんな流れや揺れが、

その一枚をきれいにまとめていく。

だからそれは切り離しちゃだめだ。ましてや売り物にするなんて。

だからRough Blueにはベストアルバムというやつは置いてない。


みたいな話をなにげにしたら、しかし結城さん(Rough Blueのマスター)は、

「Day TripperやEight Days A Weekみたいにシングルしか出てなかったのを

収めたBeatlesの『赤』みたいのは別だろ」

と言った。


                     〇                          X
 


いくらBook Offで100円で売ってたって、DoorsのGreatest Hitsになんか

手を出しちゃダメだ!

と荒木ガメラは歌ってしまいたいぐらいの日々。

タクシー運転手なんてのをやってると、アベノミクスだの何だのとは全然無関係なのか

何なのか、景気なんていっこもよくなってないことをよくよく実感させられる。


10何年も昔には、あっち行けぇこっち行けぇ言われて、言われてるうちにそれなりの

稼ぎになってたもんだが、アベノミクスの世の中じゃ、お客さんが全然おらない町を、

気がつけば何回も何回も回転木馬みたいに走っておるような状態で、

はて、きょうこの道何度目だよなんて、デジャヴと言うのか何なのか、

そんな錯覚めいた心持ちに戸惑うことしょっちゅう

で、そんな感覚も積み重なると危ういもんで、本当に今こうして車を走らせてるのは現実なのか、

もしかして全部嘘か? なんて心持ちになってきたりする。


でもまぁやっぱりどう見ても目の前の道は現実の道路だ。

しかしやはり僕の頭の中はあやふや、ほにょほにょ。

なんかこうストレンジ……。


目の前はストレンジ。

でもオラはここに、はっきり目覚めて存在している。

そんな状態の中に長い時間ひたってると、そこに妙なものが現れてくる。

一枚の膜と言うか、うっすーい壁とでも言うか、そういったものがこの私と現実の世界を、

はっきり隔てるでもなく、かと言って親密な行き来を許すでもなく、現れてくるのである。


疎外感――


かもしれない。


しかしまぁ今の我が現実は「タクシー運転手として営業車に乗務中」で、

いったん客に乗られたりすれば、その瞬間にデジャヴも疎外感も膜も壁も雲散霧消。

そこにあるのは、ああやっと客にありつけたってなかすかにHappyな現実で、

そして目の前にあるのは現実のアスファルト道。

よろよろ幅を寄せてくるご老人の自家用車、ふいに目の前に現れる原付自転車、携帯電話で話し中でいつどうなるかわからない自転車等々、シビアな交通状況。

気がつけば目の前はただの現実、わたしはただのタクシー運転手。


ところが、あなたときたらタクシー運転手なんかじゃない。

そしてあなた方の中には真面目に取り組まなければならない仕事なんて持ってない人間、

いつもふわふわ状態でいられる人間だって、この世の中には厳然と存在しているのであって、

実はオレにもそんな人間でいられた時代ってのがあったのである。


高校の後半から2年でやめることになる大学生の時代である。


ことに高校二年という時期、いくら勉強してもなんか学校というものに染まりきらん、

というか試験だ受験だばかり言って俺ってのの置き場所を勝手に決めてくる親や教師、

彼らにどうしても賛同しかねる、けれど前の前にあるのは置き場所を決められ、

唯々諾々と机に向かっている同級生たち、意味不明を黒板に並べていく教師、

借り物にしか思えない価値観を撫でつけてくる親。

来る日も、来る日も。


なんかこう、ストレンジ。


でもきっと俺が悪いのだ、言うことを聞ききれないこの僕が。

ともすれば自己嫌悪な日々。来る日も来る日も。


しかし、そんな日々の連続の中のとある曇天の日、わたしはなぜか、

まったくなぜかとか言いようがないあいまいな根拠で一枚のレコード購入してしまったのだった。


『まぼろしの世界/Strange Days』 The Doorsである。

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当時、我が音楽趣味傾向はイーグルス、フリートウッド・マック、グランド・ファンク、ソロとなったビートルたち、カーペンターズ、エルトン・ジョン、ボストンあたりに集中していてストーンズさえまともには聞いていない、という状況だった。

読む雑誌もRocki'Onなんぞではなく、Music Life、つまりはただのミーハーだったわけで、

そんな俺が出会うレコードなんかじゃなかったはずなのだが、

これぞこの世の不思議、なんとそのミーハー雑誌がこのアルバムを紹介していたのである。

しかもだ。普通ドアーズと言ったら「ハートに火をつけて」が入っているファーストを紹介するのが正しい人の道である。なのになぜかこのミーハー雑誌はセカンド――『まぼろしの世界』を紹介していたのである。


俺とこのアルバムとの出会いはつまり「奇跡的めぐり合わせの産物」だったのである。


しかしEagles,Grand Funk, Flootwood Mac, Bostonに慣れた高校生の耳である。

暗い。ビートがない。ああ、である。金返せ……正直そう思った。

しかしそこは高校生、なけなしのこずかいで買った一枚のレコードである。

鳴かぬなら鳴くまで待とうならぬ、気に入らぬなら気に入るまで聞こう一枚のレコードなのである。


そしてその日は唐突に訪れた。

一日一回を自らに義務づけてう~むと唸りながら聴き続けていたこのレコードの音が不思議なことに、すすーっと耳に、いや、それどころか心に入ってきたのだ。


どろんとうねっていた音が体液に同化、

ジム・モリソンとかいうどこか舌足らずでなのに獣じみた声の主のそれがやけに滑らかに優しく、

そして何より、全体のメロディーの美しさが今まで気付かなかったのが嘘のように聞こえるようになったのである。


そしてその歌詞を聞いてみれば、


People are strange when you are stranger.

きみがよそ者の時、人々は変。      (People are Strange)


信じられる言葉がここにある、そう思った。

そしてそれを歌う声の優しいワイルドな声、センシティヴなドラミング、美しいキーボード、

やたら勝手に指をくねらせるギタリスト……「奈落の心地よさ」がそこにはあったのである。


周囲と同じ気持ちで日々に身をおけず、親の期待にまったく沿う気になれない、

教師に好きになれそうな人物を見つけられない、そんなわたしを、

周囲と違ってても全然オッケー、親は親、自分は自分、教師は別に受験成功者製造ロボットでかまわない、そう思えるようになった日々。


ジム・モリソンが死んで四年後の夏だった。

17才の「僕」は初めて自分を肯定したのである。
それからドアーズのアルバムを、大学一年までの3年間で買い揃えた。

その中で『LAウーマン』も「好きだ」というスタンスで聞くことができるようにもなった。

でも誰が何と言おうと、たとえファーストが一番だぜと何度言われようとも、

オラにとってのドアーズの最大の功績は『ストレンジ・デイズ』なのである。