愛と平和の弾薬庫 -12ページ目

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

脳みそなんてなくても生きていける。そのことを証明するためだけに生きているような気がする今日この頃、みなさまに置かれましてはどんな感じなんでしょうか。とか急に質問なんてしてみたくなるのは、相手にしてくれてる人がいると決めつけてるからなんだが、どうだろう、これでいいんでしょうか。


知るか、という声が聞こえてくればこれ幸い、やっぱ俺は一人なんかじゃない、と安堵する。あんどあんどっててめえはあんどだけが喜びか、アンドーナツでも食ってやがれ、とか、そんな声も聞こえる。それが内なる声、すなわち自分の頭の中からこだましてくる声だと気づくまで、さて、あなたは何年かかりましたか。私はなにげに中学二年のあたりで気づきました。


ほら、脳みそがない人間にだって、中学くらい通えたんです。その記憶さえとっておけるのです。この空っぽの頭ん中に。よくできてら。


でもね。


脳みそなんかなくても、誰だって生きていける。でもそれが、十分に満足できる人生かといえばそれは怪しい。それも確かなことではある。悲しいが、哀しいが、仮名Cがそれは認めねばならない。

脳みそがなくても愛想がいいとか、脳みそなんかなくても何にでも真剣に、強い気持ちで取り組むことができる、つまり努力を惜しまない性格である、とか、そういう生き方ができる人はまあ、いい。

でも、俺は、そう、ろくな人間になんない、と母親や小学校の担任に面と向かって言われた人間なのである。


あれは小学校の教師としては、最低の人間だったと俺は今でも思っています。

しかし、どのへんが最低だったのか、なぜ俺は問い質さなかったんだろう。

あ、脳みそがないから、そこまで思いつけなかったんだ。

ああ、やだやだ、脳みそがある人生のほうがやっぱよかったなあ。


(つびこんてにゅーど)

なぜそんなに自信たっぷりに言い切れるのか。

ひとつには、自然から与えられた安堵を感じられるから。

誰かが相手になってくれてると思いこむことで得られる安堵も感じられるし、

自然に、実は無視されてることからくる安堵も感じられるから。

これらのいくつかの現象と錯覚が安堵の上に安堵を重ねていく様を

しっかり実感できているから。実感している自分を確認できるから。



(つびこんてにゅーど)

やはりこの心地よさは俺に向けられたものじゃないんだ。

そう思うと、なぜかまた安らぎが深くなった。

不思議だ。なぜ自分に向けられた好意じゃないと思って安らげるのか。

自分の神経がよくわからなくなる。脳みそがないだけじゃなく、

神経回路もぶち切れてるんだろうか。

いや、そんな気はしない。なぜかそのへんには自信を覚える。

俺の神経回路は断ち切れてなんかいない。きっちりつながってる。


途方に暮れたまま俺は橋の上に立つ。

橋の上に立ち、足下を流れる川の流れの音を聞く。

脳みそがなくても耳がある、と思う。

心地よい。ひたすら気が休まる。

なぜだろう。

なぜ川の流れる音は俺をほっとさせてくれるんだろう。

俺はこれまで何か、川に何かしてやったか?

それとも川は、俺なんてぜんぜん相手にしてなくて、他の誰かを心地よくさせようとこんなしゃらしゃら心地よい音を常時させてるんだろうか。俺はそのご相伴にあずかってるだけ?

確かに俺は誰かが俺の相手になってくれてるのを感じる。

それは小さくとも確かに一個の意志を持った誰かで、川とか太陽とか地球の地面そのものとか、そんな自然の何かじゃないはずだ。

揺らぎ、動く、意思だ。



(つびこんてにゅーど)

さてと、そろそろ本気で決めなくちゃならないんだろう。

どっちに行くべきか。

なんてね。

強がったってしょうがない。

俺には行きたい場所なんてない。ずっとなかった。

どっちに行きたいか、まったくわからないまま生きてきたんだね。

それが現実だ。現実の俺だ。逃げようのない現実だ。

逃げる努力を怠って生きてきた俺の現実だ。

ここはどこ? 私は誰? ってやつだ。


今さら取りに行くくとさえできない。

脳みそだ。

忘れた。くれ。と言ったところで母親には何のことかもわかるまい。

ろくな人間にならない、と言い切った女なのだ。

もし持ってても寄越さないに決まってる。

ただ、見知らぬ他人を見る目で、何のこと? とか言うだけなのだ。


(つびこんてにゅーど)

だが別に俺は信じてるわけじゃない。

誰も相手にしてくれてなくても、実は一向にかまわないのだ。

俺が、誰かが俺を相手にしてくれてる、と思えることに意味がある。

たとえ実際には世界、いや、宇宙全体から見放されてたとしても、

俺がそう思わないことに意味があるんだ。


案外育ちがいんだな、お前。

とかなんとか思うやつもいるかもしれない。

俺なんてとてもじゃないが完全に世界、いや、宇宙から見放されてる

としか思えないぜ。だってそんな境遇なんだ、人生なんだ、とか言って。

お前なんか誰かが相手にしてくれてる? そんなふうに思えるなんて、

実はガキのころにしっかり誰かに相手してくれてたからなんだろ、

違うか?って。

 

そうかもしれない。もしあんたの言う通りなら俺は世界で一番の幸福ものだ。

たとえ実際には、世界、いや、宇宙全体が俺にそっぽを向いてるとしても。

とにかく俺は感じるままに感じるんだ。

誰かが俺の相手をしてくれてると。

たとえ365日、一切誰とも口を利かなかったとしても。


(つびこんてにゅーど)

誰かが相手にしてくれてる。

そんなふうに思えることは悪いこっちゃない。

なんかこう、腹が落ち着く、つうの?

ふっと息がつける感じ、つうの?


もちろんそんな安心できるような感覚になれるのは、

相手にしてくれてる誰かってのが、そっとどこで静かに俺を見てくれてるからで、

これがやたら鉄砲ぶちかますだけの警官や、やたら刃物振り回すだけのやくざ屋さんや、

やたらこぶし振り回すだけのボクサーや、やたらつかみかかってくるだけの相撲取りだったら、

まさかそんなに落ち着けるわけがない。息つく暇もありゃしない。


ありがとう、誰かさん。

俺はあんたに感謝する。感謝することぐらいしかできないから。


(つびこんてにゅーど) 

そうそう、生きてく場所どころか、行くべき場所さえわからねえ、って話だった。

いや、別に誰と話してるわけでもないんだがね。

でもこうして語ってると不思議なもんで、

誰かが俺の相手をしてくれてるような気になってこないでもない。


だったらどうだろう、俺は思い込んで生きていくことにしようか。


誰かが俺の相手をしてくれている。

誰かが俺を、まるで脳みそをちゃんと兼ね備えた生き物として見てくれていて、

相手をしてくれている。


そう思い込んで生きちゃいけないだろうか。


いけるいける。


だってなんだかそういう気分になってきてるもんな、すでに。とっくに。気づく前から。

ありがたや、錯覚。ありがたや、おめでたい性格。

ありがたや、こんな脳たりんに育ててくださったお母さま。


で、どこでどうやって生きていこうか。


(つびこんてにゅーど)

 

しかし、と言ったきり黙っちまったらただの脳たりんだ。

 

しかし、と言ったからにはそのあとに続く言葉がなけりゃならないのである。

 

それまで言っていたことと反対の言葉が出てくりゃしめたもん、ってやつだ。

 

しかし、それまで何を言っていたか覚えてりゃそれも可能だろうが、

 

中には記憶力に自信がないバカってのもいて、

 

脳みそを母親の腹の中に忘れてきた野郎なんてのはその代表みてえなもんで、

 

それは俺だ。


で、何を話してたのか、俺は思い出そうとして、頑張っている自分に気がつく。

 

無理だ、無理だ、という思いが胸の中に溢れかえるのはこういう時だ。

 

思い出すなんて、無理だ。

 

そして耳の奥からよみがえる声ーーろくな人間にゃならないね。


ああ、なれないんだよ。

 

俺は頑張れない。何一つ、頑張れない。だからこんなんなっちまったんだ。

 

でもな、こんな人間にしちまった、そのいっちゃん下地を作ったのは誰だい?って話だ。

 

花見さ行ったんすね。

ほんとは先週の月曜日に行く予定だったのが、雪降るくらい寒いってんで延期してて、

そんで一週間と一日遅れで行ってきたのだ。

これってどうなの?って思ったんですわ。

先週いってたんなら相当早い花見だったんだろうけど、16日ってのは早いのかな、

普通かなって。で、毎年撮ってた写真の日にちを調査、してみたらさすがに2011年は花見なんてしてない。

当然か。つうか、2010年より前もしてない。で、我が家の花見ってのは2013年に始まってるってのが判明。

つうか、それ以前にも絶対してるんだけどね、デジカメで撮ってる日付しか調べらんないんで、


2013年 4月15日

2014年 4月10日

2015年 4月14日

2016年 4月5日

2017年 4月17日

2018年 4月9日

2019年 4月16日


結局、今年は遅いほうだったんだと判明。8日に行っててもそれほど早いってわけじゃなかったんだねえ。

なるほど。


しかし日差しがたっぷり、暑いくらいの花見でした。



Cherry Blossom

Lunch Box