愛と平和の弾薬庫 -12ページ目

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

 

しかし、と言ったきり黙っちまったらただの脳たりんだ。

 

しかし、と言ったからにはそのあとに続く言葉がなけりゃならないのである。

 

それまで言っていたことと反対の言葉が出てくりゃしめたもん、ってやつだ。

 

しかし、それまで何を言っていたか覚えてりゃそれも可能だろうが、

 

中には記憶力に自信がないバカってのもいて、

 

脳みそを母親の腹の中に忘れてきた野郎なんてのはその代表みてえなもんで、

 

それは俺だ。


で、何を話してたのか、俺は思い出そうとして、頑張っている自分に気がつく。

 

無理だ、無理だ、という思いが胸の中に溢れかえるのはこういう時だ。

 

思い出すなんて、無理だ。

 

そして耳の奥からよみがえる声ーーろくな人間にゃならないね。


ああ、なれないんだよ。

 

俺は頑張れない。何一つ、頑張れない。だからこんなんなっちまったんだ。

 

でもな、こんな人間にしちまった、そのいっちゃん下地を作ったのは誰だい?って話だ。

 

花見さ行ったんすね。

ほんとは先週の月曜日に行く予定だったのが、雪降るくらい寒いってんで延期してて、

そんで一週間と一日遅れで行ってきたのだ。

これってどうなの?って思ったんですわ。

先週いってたんなら相当早い花見だったんだろうけど、16日ってのは早いのかな、

普通かなって。で、毎年撮ってた写真の日にちを調査、してみたらさすがに2011年は花見なんてしてない。

当然か。つうか、2010年より前もしてない。で、我が家の花見ってのは2013年に始まってるってのが判明。

つうか、それ以前にも絶対してるんだけどね、デジカメで撮ってる日付しか調べらんないんで、


2013年 4月15日

2014年 4月10日

2015年 4月14日

2016年 4月5日

2017年 4月17日

2018年 4月9日

2019年 4月16日


結局、今年は遅いほうだったんだと判明。8日に行っててもそれほど早いってわけじゃなかったんだねえ。

なるほど。


しかし日差しがたっぷり、暑いくらいの花見でした。



Cherry Blossom

Lunch Box

どっかに脳みそ忘れてきちまったんだ。

きっと母親の腹ん中。


いや、てめえの損得にしか関心のねえあの女のこった、

あんなクソろくでもねえ男のガキにやってなるもんかってなもんで、

腹ん中に脳みそ一個、がっちりキープして、側だけ出してよこしたにちげえねえ。


ご丁寧にっつーか、ご愛想につーか、ちんこだけくっつけてよ。


あっはっは、そうかいそうかい。

わかったわかった、リョーカイだ。


だったらはいはい、そうだね、気ちげーとして生きてきゃいいってこった。

だってそうだろ、脳みそもらえねえで生まれてきたんだからな。


ああ、ありがたやありがたやときたもんだ。

もう金輪際、キョーイクってえやつとは無縁でやってこーって話だ。


そんでついでに納得。

あの日、かわいいガキのつもりでいた俺に母親の言った言葉……

「ろくな人間になんないね」

はいはい、そりゃそうだ。

言われたときゃ、それがてめえのガキに言う言葉かってドタマに来たもんだが、

今ならなんぼでも納得できるってもんだ。

ところが世の中、気違えにはなんて生きにくいんだ。


てえのも気違えってだけで、どこにも生き場所が見つかんねんだ。

生きるどころか、行きてえ場所さえ定まんねえ。


なんつっても脳みそ忘れて来てんでね、どこ行って何したらいいかもわかんねってこった。

いやあ、のっけから参ったね、ってんで、とりあえずはしょーがねえ、

気違えじゃねえ真似事でやってくかってことにしたわけですよ。


ね、そうなんですよ。

気違えで生きてけねんだからしゃーないね、ってことであります。

でも根が気違えですからね、どうにもこうにもまともに食ってくってことが

どういう事柄の上に成り立ってるかがわかんねんですね。

脳みそねっすからね。


しかしですね、生きてたいんなら、メシの一杯にもありつけてえんならってんで、

ほら「しかし」なんて言葉も覚えたんですね。かしこになったわけじゃねんです。

脳みそないなりにいろいろ拾ってくわけですわ、道のそこここから、

それなりに見えるために役に立ちそうなことを。


で、「しかし」とか言っちゃってね、そうこってね。


(つびこんてぃにゅーど)



 

最近は雲の写真ばっか撮ってます。

撮れば撮るほど少しずつ面白くなってくるんでどうにも発表しないわけにはいかない。

むやみにシャッターを押さない、がコツのような。

(写真をクリックするとスライドショーで見られます)



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もし、愛がすべての権利を奪われてしまったら

どれだけの人が歌を歌えなくなってしまうんだろう。


もし愛が失効してしまったら

歌を歌うという行為を奪われてしまった人たちは

ベッドルームに閉じ込められて、2度と出てこれなくなって

しまうんだろうか。


愛を無力にしてしまうのは

一体誰だ。


愛はこそこそすることを知らないから

通りで見つけられ、ラーメン屋の真ん中で

テレビを眺めながらタンメンをすすっているところで

つかまってしまい、すべてを抜かれてしまう。


もう誰も、レナード・コーエンのようには歌えない。

大晦日だよ全員集合!たって誰を集めてるのやら。

とりあえずはスワンを、って、こんな感じ。


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しかしいきなり頭の上を通過されるとかなり驚かされるよ。

それにしても昨日みたいに晴れてたらなあ、もっといい感じに撮れたんだが。

きのうはこんなだった。


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まさに雲の展覧会展示会品評会。


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でもきょう、ビッグみそDayはこんな感じ。


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こいつらがぐるっと回って俺を襲った。

回ってくると思わなかったもんなあ。


しかしスワンを真下から見上げるなんて伊豆沼に行ったわけでもないのに

なかなかできない経験。


来年はスワンな年になるだろう。


つうか、白鳥じゃなくて酉か。


よろしくニューイヤーってことだ!




ボブ・ディランの代わりにパティ・スミスが歌っていた。

Hard Rain's Gonna Comeだった。

途中でPattiは感極まってしまって一瞬歌えなくなった。

けれど再び歌い始めると最後までしっかり、Bob Dylanの言葉の大海原を語りきった。


ノーベル平和賞ではなく、文学賞。

これがRock Musicianたるボブに与えられることがどんなことなのかは、

はっきり俺なんかには明言できない。

でもこれはひとつの頂点なんじゃないか。


そんな感慨が胸にあふれた。


ノーベル賞という全世界から承認されている栄誉を与えられることで、

Rock Musicは世界から完全に認められた。

そのことで、ロックを何らかの特別なもの――空気や水のように

生命維持に必要不可欠なもの――として取り込んでいる人間にしか見えない、

ほかの音楽とRock Musicのあいだにある境界線がはっきり提示され、

新しいスタートラインに立った。


そんな気がしたのだ。

小学校高学年だったか、中学校に入ってからだったか、

「自己嫌悪」という言葉があることを知ってから

その言葉はまるで五寸釘で脳髄に打ち込まれた藁人形のごとき、

一時も記憶から離れない呪いの言葉となった。


こう書いていて思う。

十代でこの言葉のいやらしさに責め苦の感覚を抱かない人間は

もしかしたら一人もいないんじゃないだろうか、と。


俺の場合、中々勉強を始められない自分に五寸釘はいつも突き刺さってきた。


高校2年の時、The Doorsの「People Are Strange」という曲と出会った。


People are strange when you're stranger.


お前がよそものの時、人々は奇妙な存在になる。


周りは自分と別の感覚で回っているんだってことを俺は知らされたような気がした。

そんなふうにこの曲の歌詞を理解することにしたのだ。

単なる曲解だったかもしれないけれど、俺はその曲解で救われた。

それ以来、自己嫌悪なんて言葉、忘れてしまった。


ところが!

57歳にもなってこの言葉が帰ってきてしまったのだ。

いやあ、びっくりした。


なんてこたない、稼ぎの悪い自分というのを真正面から見据えたら、

それに対して何の対応策も思いつかない自分に、ありゃあ、と

懐かしい言葉に直接つながるような感覚を覚えたのだ。


けれどやっぱり、十代の頃のような五寸釘的痛痒には

五十代の自己嫌悪はつながってはいかないようだ。

それほど本気で、自己嫌悪できないのである。


なぜだろう。



実は猫に生まれたかった。

きちんと猫的感受性と価値観を持った猫に。

こんな姿だけが猫で、頭の中が人間の猫になんて、

俺は生まれたくなんかなかった。