愛と平和の弾薬庫 -11ページ目

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

蝦夷はエゾでもアイヌでもない。

蝦夷は「えみし」と読み、古代の東北地方に住んでいた朝廷に所属されない人民のことを指す。

『風の陣』の物語は聖武天皇時代の749年、奥州に黄金が発見されたことに始まる。

教科書に「蝦夷征伐の征夷大将軍」として書かれる坂上田村麻呂の父親・苅田麻呂の時代である。
 

「風の陣」 その物語と時代年表

 

737年

政権を担っていた藤原家の兄たちを天然痘で次々に失った光明皇后、

聖武天皇ヘ大仏建立を強く勧める。

 

黄金を欲しがる朝廷の陸奥経営は蝦夷同士を時に分断させ、様々な形で戦火をもたらす。

そんな時代、朝廷の好きなままにさせまいと蝦夷の独立を堅く胸に刻んだ二人がいた。

丸子嶋足(まるこのしまたり)と物部天鈴(もののべのてんれい)である。

嶋足はやがて朝廷の内裏に深く存在を刻み込み、天鈴は彼が都でどうあるべきかを説く。

 

749年

小田郡(現・宮城県涌谷町近辺)から大量の黄金産出。

     物部吉風の危惧をよそに、黄金は牡鹿の牡鹿の丸子宮足(みやたり)から

陸奥守・百済慶福に流れ、

     そして朝廷へ。朝廷にとって「辺境の地」でしかなかった陸奥が「宝の蔵」となった。

     百済慶福、黄金調達の功により従五位上から従三位に破格の昇格し、

聖武天皇は元号を天平から天平感宝に改める。

     丸子宮足の長子・嶋足、百済慶福と面会する。同席の隅において、嶋足〈15〉、天鈴(9)、

     伊治鮮麻呂(これはるのあざまろ)(5)、丸子三山(8)が久しぶりに顔を合わせる。

750年

嶋足、慶福と共に都へ出仕、出世の第一歩を踏み出す。

 

天鈴は、嶋足が内裏で出世して陸奥守として陸奥へ帰還、

そして蝦夷の平安を守る者になるという絵図を胸に抱き、策を編んでいく。

朝廷内の権力闘争に陰から深くかかわり、嶋足の出世を図るのである。

そのためにあえて政変の火種をつくりだしもする。もちろん油を注ぐことも。

 

752年

陸奥守に佐伯全成(さえきのまたなり)。

753年

大初位下となっていた丸子嶋足、牡鹿姓を賜る。牡鹿嶋足に。

     近衛府番長となっていた牡鹿嶋足、衛士府小尉の坂上苅田麻呂と出会い衛士府へ。

 

天鈴(17)、嶋足に

「力は奈良麻呂が上、策では仲麻呂。

内裏が二つに割れぬのは誰もが様子見をしているからよ……」


嶋足は根っからの武人である坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)に傾倒し、

策士の天鈴よりも苅田麻呂の存在に自らを近づけようとする。

やがて圧倒的な剣・弓・騎馬の能力が認められ位を上げていく。
天鈴は物部の財を元に金に糸目をつけず、嶋足が呆れるほどの計略を着実に実行していく。

苅田麻呂に心酔し、いちいちくそ真面目な嶋足。

蝦夷の魂のみを実践していこうとする、柔軟にして奔放な天鈴。

第一巻から第四巻までは彼らが都で翻弄されまくり、

着実に嶋足を出世さていく群像劇となる。

 

757年

7月、藤原仲麻呂を打倒せんとする橘奈良麻呂らの謀議が発覚

     ⇒奈良麻呂とその周辺の者ら処刑。陸奥守・佐伯全成も自決(橘奈良麻呂の変)

     ⇒仲麻呂、専権を確立し、名も藤原恵美朝臣押勝と改める。

     押勝、陸奥守に息子の朝猟を任命。


橘諸兄の子、奈良麻呂が仲麻呂を排除しようとして失脚したこの変の鎮圧に大いに貢献した嶋足だが、

その性格からあえて功績を無為にする。

嶋足を近いうちにも陸奥守にともくろむ天鈴は落胆する。

 

759年

陸奥国に桃生城、出羽国に雄勝城が完成する。

 

奈良麻呂を打倒、醇仁天皇を擁して独裁政権を確立した藤原仲麻呂は

自ら藤原恵美朝臣押勝と改名して藤原氏をも遠ざけて独尊的立場を確立。

しかし後ろ盾になっていた光明皇太后(藤原氏の出)の死により権勢を失っていく。

やがて孝謙上皇と対立し、天鈴はこの権力闘争をあおりたてる。

そして自らと同じ物部氏の出の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を女帝孝謙上皇の側に近づけていく。
 

764年

孝謙太上天皇の信任を得た道鏡、恵美押勝から権力奪取(恵美押勝の乱)。

嶋足、この乱における功績により従七位上から従四位下へ破格の11階昇進。

     孝謙太上天皇⇒称徳天皇に。

 

押勝のクーデターが失敗、嶋足は坂上苅田麻呂とともに乱鎮圧の功で破格の昇進を遂げるが、

狡猾な道鏡は彼を実質的には閑職となる役目につけ、力を削ぐ。

苅田麻呂の側で平穏な都を眺める嶋足に、天鈴の心中は晴れない。
天鈴は奥州へ向かう視線を分散させるため、道鏡にも揺さぶりをかけようとする。
 

765年

道鏡、法王に。

弟の浄人(ひよひと)を従二位大納言に。

 

道鏡は恵美押勝討伐を果たした後、女帝、孝謙上皇の寵愛の元で政の怪物となっていく。

もはや天鈴らの手にも負えない。

法王という官位は未曾有。天皇と同じ所得さえ与えられるのだった。

 

767年

伊治城完成。

768年

9月、大和守石川名足(いしかわのなたり)、陸奥鎮守将軍を兼ね、769年、陸奥守に。
769年

5月、宇佐八幡宮神託事件。

 

宇佐八幡宮神託とは、天皇の位を得ようとした道鏡の野望を阻止したものだった。

「道鏡を天位につかしめば天下太平ならん」

宇佐八幡宮からこの神託を賜った清廉潔白の漢、和気清麻呂により孝謙上皇に奏上される。

「わが国は君臣の分定まれり、道鏡は悖逆(はいぎやく)無道、神器を望むをもって神震怒し、

その祈をきかず。天つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を続(つ)げよ」

清麻呂はこの奏上の後、道鏡に大隅に流されたが、天皇は道鏡を天位につけることを断念。

のちに天皇が没すると道鏡も失脚していった。

 

770年

8月、蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかにめのきみうくはう)らが任を放棄、

一族共々糠部へ帰還。嶋足、多賀城に派遣される。

     8月28日 称徳天皇、崩御。道鏡、下野薬師寺別当に左遷、772年5月没。

     9月 坂上苅田麻呂、陸奥鎮守将軍に。(半年で帰都)
     10月 天智天皇の孫・白壁王、皇太子に(後に光仁天皇)。

 

道鏡の失脚に乗じて復権をもくろむ藤原一族だったが、

新天皇、光仁天皇は藤原氏を牽制する派閥人事を進める。

 

772年

9月、大伴駿河麻呂、陸奥按察使に。

774年

7月23日、陸奥按察使兼鎮守将軍となった大伴駿河麻呂に蝦夷征討命が下る。

      25日、海道蝦夷、桃生城を攻撃。


中央政権は金鉱支配を大事とはするものの、陸奥は辺境の地であり、

度々の蝦夷の攻撃(国家側の輩の理不尽な扱いに対する反抗)に対しても、

多賀城に国府を設けて、細々と橋頭堡を置くくらいで統治には程遠く、

中央における権力争いにも翻弄され、陸奥にまではなかなか勢力を伸ばせないでいた。

そんな時代の中で、嶋足、天鈴、苅田麻呂は三者それぞれの立場から、

徐々に立ち位置がわかれていく。
 

苅田麻呂は根っからの武人、堅物だ。

賢き帝とそれを支える有能な政治家による中央集権の構築こそ何よりの大事で、

国家の平和と繁栄さえ実現なれば、陸奥も平和と繁栄を獲得できると思っている。

 

嶋足は都については苅田麻呂と同じ思考であるが、蝦夷の期待を一身に受けている自覚もある。

しかし天鈴ほどには陸奥ばかりを中心とする思考には遠い。
 

天鈴は中央政権なんてどうでもいい。

陸奥の独立のみを目指し、時機の見極めさえつけば朝廷との闘争だって辞さない。

しかし嶋足はいまいち煮え切らない。

 

という状況で四巻までが進み、第五巻となるが、

ここではこの三人はほとんど登場しない。

代わりに主役となるのが、嶋足や天鈴よりもさらに若い伊治鮮麻呂(これはるのあざまろ)だ。

彼は嶋足同様、朝廷側に立場を置いていたが、精神は天鈴よりもまっすぐな心で

蝦夷社会の独立を見据えていた。

そんな彼の前に立ちふさがったのが史上最悪の陸奥守・紀広純(きのひろずみ)だった。

 

775年

7月 河内守紀広純、陸奥鎮守副将軍を兼任。

776年

出羽国が志波村の蝦夷に苦戦。 陸奥国の軍士3000人が胆沢を攻撃。

777年

1月25日、大伴真綱、陸奥介に。

     5月27日、紀広純、陸奥守に。兼陸奥按察使⇒778年、鎮守府将軍に。

778年

4月 伊治公鮮麻呂(これはるのきみあざまろ)、伊佐西古(いさせこ)と配下200を従え

出羽国志和村に布陣。蝦夷による蝦夷征伐。

     6月 鮮麻呂、外従五位下を授位。

     道嶋大楯、兄の三山より牡鹿郡大領の地位を譲られる。

 

前任の石川名足も朝廷の目の届かない多賀城で好き放題に私腹を肥やしていたが、

新しく陸奥守となった紀広純はそれ以上だった。

陸奥按察使と鎮守府将軍をも兼務し、兄の三山に代わって牡鹿大領となった道嶋大楯を通し、

黄金を貯め込み、ばかりならまだしも腹の奥底にあるのは蝦夷の殲滅で、

そのために軍備を増強、大楯を使って蝦夷たちの反乱を煽動し、蝦夷征討の勅命を待っていた。

様々に広純に便利がられた道嶋大楯は嶋足の腹違いの弟だが、広純の思惑とあらば、

殲滅戦開始のための口実さえ作り、挑発を画策する、まさに蝦夷の裏切者だ。

そんな二人についに、待ちに待った勅が下される。


780年

朝廷、胆沢(現・水沢市内)に築城(覚べつ城)を計画。

 <紀広純の読み上げた勅書>

 狼は子供でも荒々しい心を持ち恩義を顧みない。同様に蝦夷も、あえて山川の険しいことを恃み、

 しばしば辺境を侵犯している。

 3000の兵を発して卑しい蝦夷の残党を刈り取り、もって敗残兵を滅ぼしてしまうように。

 

胆沢と言えば、鮮麻呂が大領として入っている伊治城よりもさらに北方の、

まさに蝦夷の居住地の入り口であり、これはまさに蝦夷へのこれまでないほどの挑発だ。

そして挑発は侮蔑の上に成り立っていた。

都の人間からすればどこまでも「蝦夷は獣」なのだと、勅は言い切っているのだ。

いつか必ずという意志を持って我慢に我慢を重ねていた伊治鮮麻呂の忍耐が、

ここに至って遂に崩壊する。

しかし一人の暴発に終っては、何の意味もない。

蝦夷の大同団結を決定づける形で、ことは為されなければならない。

団結の要になるとしたら胆沢の阿久斗(あくと)しかいない。

さらには阿久斗の息子、阿弖流為の存在も頼もしく、鮮麻呂には映っていた。

 

覚べつ城の立地選定のために伊治城に紀広純と道嶋大楯が訪れるという

形で好機は早々に訪れた。多賀城から引き連れてくる兵もたった200だという。

阿久斗の元に鮮麻呂は使者を出す。鮮麻呂を多賀城に魂を売った裏切者と見ていた

胆沢の兵の前で使者は命を張って阿久斗のみとの面会を求める。

その心胆に応える阿久斗、面会に応じる。

初めは信じ切れなかった阿弖流為もやがて鮮麻呂の覚悟を承知、

自らが援護軍の将を務めると父・阿久斗に宣言する。

かくして、

伊治城内でことを為す鮮麻呂のために、多賀城の兵たちを外へおびき出す役割を

阿弖流為は引き受ける。

 

780年

3月22日 朝廷側に身を置き時機を待っていた伊治城主・伊治公鮮麻呂、

胆沢の阿弖流為を中心とする蝦夷軍の援護を得て、 

伊治城に紀広純と道嶋大楯の首を挙げる。

 

200と聞かされていた多賀城の兵は実際は120しか来なかった。

あっさり阿弖流為軍の誘いにおびき出される多賀城軍。

城内では広純が鮮麻呂の前で命乞いを始める。

こんなやつはとっとと多賀城を去らせる!と大楯を指さす広純。

その言葉に直接反応する大楯。

……………

あっけないほどに、広純と大楯は息絶えた。

阿弖流為の視界に映る、城門の前に掲げられた二人の首。

そして鮮麻呂は……永遠の風に。

 

 

 

 

 

癖のままに、脳みそもなしに俺は生きる。

ずっとそうしてきたんだから、これからもこのままいけるんだろう。

しかしいけると言ったって、いけてない感じにしか生きてこれなかったんだから、

何一つましなことは期待できない。

期待できなくてもこれまでは生きてこれたんだから、まあ、それなりってこって

やってけるんだろう。

でもほんとにそれでいいの? と言われりゃつらい。

脳みそがあるような人生が、やはり、いい。

だからこうして俺は書いてるんです。

脳みそのない自分の実情を。橋の上にいるなんて嘘嘘。

橋の上じゃ足し算一つ、アルファベット一つ書けるもんじゃありません。

 

(マジでWordで書き始めることにしたので突然ですが終わり)

 
まったく動かない、増えもしない、永遠の1たる行為。それが癖。
そこに何か微妙な意味合いを伴った魅力でも感じられれば救われるけれど、
永遠の1は1である。何もないから進まないし、増えもしないのだ。
だって、同じ場所で同じことを思うことに何の魅力が?

そして俺は歩き始める。
鯉を見下ろすこともなく、捨てられた亀を探すこともなく、
青鷺の変な立ち姿に見とれることもなく、そして何の目的もなく、
歩きだす。

いや、今さら気づいたってぇだけなら、まだいい。

俺はこれを何度も繰り返してるのだ。

しかも同じ場所、ここで。


そう。

俺はこの橋の上のこのあたりでいつも思うのだ。

橋には風かぁ、なるほどなあ、と。

そういやそうだなあ、と。


もはやこれはデジャヴュでもなんでもない。

ただの癖である。

かゆいからかゆい箇所をかいている。その程度の、気づき。

てえかやっぱ、癖。ただの、癖。


こんな調子である。すべてが。生まれてからここまですべてが、癖、その集積。

ちりも積もれば山となる?

いえいえ、

ちりは積もらないのです。

飛ばされ、忘れ去られるだけのです。

つうか、


いくら足しても2にさえならない、永遠の、1。


それが同じ場所で同じことを思う、ということなのだ。


前進しない、1。


(To be continued。しょうこりもなく)

昔、橋ってのにはちょっとした何かがあった。

橋の上ったら、そう、じんせーに行き詰った! と思いこんだ人間がその欄干をまたいで

じんせーに別れを告げる場所。

橋の下ったら、欄干をまたいだが、結局またいだ足を元に戻して落ちるんでわなく、

歩いてその下に回り、落ちぶれた人間として生きることを選んだ人の住まう場所。

今となってはそれほど味わい深い場所でもないが、

やはりただの道とは少々趣きを異にする。

まず、橋ってのは風の強い場所でもある。

ここで帽子を飛ばされたらまず諦めなくちゃならない。

冬ともなればまず真っ先に凍てつく場所である。

ここで車のスピードを上げ、ブレーキを踏むとくるくる回ることもできる。

そっか、と俺はここで気がつく。

橋と風がけっこう強く結びついてるのだと。

なるほどね。

ま、こんなことに気づいてニタついてる俺なのだ。


(つーびーこんてにゅうどう)


というわけで俺は今、橋の上に立っている。

などと言うと、まるで何事かに悩み苦しむ人が、

わたしはいっそここから飛び込んでしまったほうがいいのかも知らん、

などと思いつつ川面を見つめている様子を想像してしまいがちだが、

もちろん俺に死ぬつもりなどない。


それがかつてかすかに存在した頃、

すなわち、自分に思慮などというものがあり、それによって自分の人生を

どうにかできると思い込んでいた頃、

とある建物の手すりの上に俺の姿はあった。

所は21階建てマンションの17階、売り出し中の部屋のベランダだった。

そんなところに足を、そして体全体を乗せてしまうまでの様々なる過程を語りだすと

きりがない。とにかく俺は勘違いしていたのだ。

こんなろくな人生を辿れない人間にも脳みそというものがあり、

努力の一つもできない人間にもまっとうに生きる権利というものがあるのだ、と。


なんつ勘違い。


そんな勘違いが原因で死ねるほど、俺には根性はなかった。

から、いまこんな吐露をとろとろ、と。あははは。


というわけだから今、俺はただ偶然の一種でたまたま橋の上にいるに過ぎない。

ああ、いい風だ。春だ春だ。五月の乾いた風だ。


(つびこんてにゅーど)

そして何より肝心なのは、見た風景の様子、内容はもちろんのこと、脳内に発生した感覚や情緒をも思えてるってことなのである。

俺なんか、ほら、一年前に見た映画見たとして、始まって一時間してやっと、あ、これ見た、とか気づくぐらいで。

彼なら、次の瞬間に仮面の隅っこに顕れる風の動きだって、当たり前のように覚えてるんである。

そして言う。

ここなんだよなあ、ドライフラワー、揺れるだろ、ここだよなあ。

何のことかポカンとしてると確かに次の瞬間、ドライフラワーは揺れるのである。

象徴的に。

それが俺の耳には、あんたそんなことも覚えてなかったのか、と聞こえるのだ。

バカじゃねえの。こんな肝心で印象的なシーン覚えてなくて、見てないも同然だぜ。

そんな奴が毎日、部屋に帰るといるんだね。泣きたくなるたあこのこった。

そんなやつがギターを必死になって弾いてる。努力。

思っていました。

その感性、根性、記憶力、そしてその図太く一本体を貫いてる骨、俺にもくんねえか、と。

そん時はまだ、自分に脳みそ一個備わってないなんておもってもいなかったからね。

熱望すれば自分にも得られると思ってた。

だから、

今、てめえの頭蓋骨の中がからっぽだと知って、楽よ。

なーんだ、ってね、ないんだ、ってね、じゃあ、しょうがねえじゃん、って、楽よ。

めでたしめでたし……なのか、

くわばらくわばら、なのか。


(つびこんてにゅーど)

橋の上から脳みそを備えていた友のことを思う。

彼は実に有能な人間だ。

こんなふうに橋の上から、鯉と、せいぜいが捨てられた亀ぐらいしか見当たらない川を見下ろしてさえ、

何かを思っていた。俺みたいに、あ、とか思って終わりじゃなかった。

何につけても、すげえなあ、とひとしきり感動する能力を持った男だ。

最近はあまり会ってないから実のところは、男だった、と過去形で言うべきなんだろう。

が、彼は変わらない。変わってないことが容易に想像できるから、男だ、と

現在形で断定できるのである。

そのことからして、すでに、脳みそのある人間の素晴らしさを言い当ててるようなものだ。

俺なんて、ほら、こんなにすぐ変わっちまうような人間だから。

ああ、一本でいい、骨っちゅーやつが欲しい。

脳みそは諦める。骨でいいよ。骨一本で。



(つびこんてにゅーど)

脳みそなんかなくたって生きていける。それは事実です。でもその人生が充分に満足できるものとなるかどうかは非常に怪しい。それは現実です。


俺がその現実を目の当たりにしたのは、20代も終わりの頃でした。


もっと早かったら、どれだけよかったでしょう。

世の中には、脳みそを、母親の腹ん中とか、産院の廊下の角とか、どっかに忘れてきた人間と、

どこにも忘れずに、生まれてくる時にしっかり自らの頭部、頭蓋内にひだひだたっぷりな脳みそを装てんさせて出生してくる人間とがあるのだということと、そして、その二者のあいだにはそののち、盛大なる相違が生じちまうのだということを、せめて20代にちょーど乗っかったあたり、そう、あのばかばかしいセージン式とかに招かれtっちまうあたりにでも知ることができてたら、ああ、どれだけよかったんっしょう。


でも俺が脳みそのあるなし、その二者の人生の成り立ち方の大いなる相違点に気づかされたのは、とにもかくにもまあ、30才まであと1ヶ月というあたりだったのです。

それを教えてくれたのは、私にとってはけっこう重要と言える友人でした。

そいつは当時、俺んちに、俺のアパートに居候してました。

住まわせてたんです。僻地にある自分ちから学校に通うのは、留年した自分にはきついから、大学に近いあんたんちに居候させてくんないか、と言ってきたその年下の友人と、俺は暮らしを共にしとったんです。

そいつが脳みそを持ってたんです。

俺は、いいなあ、と思いました。


(つびこんてにゅーど)

■阿弖流為(あてるい)軍登場まで
724年 陸奥鎮守将軍、大野東人、多賀城を築城――朝廷統括領域の設定。
749年 小田郡
(多賀城近郊)から大量の黄金産出――それまで黄金は唐から輸入するしかなかった。
    小田郡完全制圧。名取に軍団を組織。桃生城築城――朝廷による陸奥簒奪
(さんだつ)の開始。
    蝦夷の豪族を取り込み始める――蝦夷による蝦夷鎮圧。

770年 蝦夷鎮圧を役目としていた宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみ・うくはう)が任を放棄、陸奥へ帰還
774年 蝦夷、桃生城を攻撃――蝦夷ののどかな時代の終焉。
    以降、陸奥国、出羽国の各所で小ぜり合いが続く。

■阿弖流為軍の登場
780年 朝廷、胆沢(現・水沢市内)に築城(覚べつ城)を計画。
 朝廷側に身を置き時節到来を待っていた伊治公鮮麻呂(これはるのきみ・あざまろ=伊治城を任されていた鮮麻呂)が

     胆沢の阿弖流為を中心とする蝦夷軍の援護を得て、 陸奥鎮守将軍・紀広純(きのひろずみ)と道嶋大楯(みちしまのおおたて)の首を取る。
  紀広純――陸奥鎮守将軍、陸奥按察使、内裏の参議
 道嶋大楯――牡鹿出自で朝廷側に組し大出世を果たしていた道嶋嶋足
(みちしまのしまたり)の弟。牡鹿郡大領

●阿弖流為軍
   阿弖流為――胆沢を治める阿久斗(あくと)の跡取り。伊治城攻めの時、18才。
   母礼(もれ)――黒石の那珂禰(なかね)の跡取り。
             超切れ者の策士。阿弖流為の右腕となり、陰から軍を統率する。
   伊佐西古(いさしこ)――江刺の頭領。伊治城攻めの後に参軍。
   飛良手(ひらて)――鮮麻呂の密謀を多賀城に密告しようとした阿久斗の側臣。
                阿弖流為に捕えられるが、阿弖流為の懇願により阿久斗に許され、
                以後、阿弖流為に命をあずける下臣となる。
   多久麻(たくま)――伊治城攻略の密謀を胆沢に伝令した鮮麻呂の下臣。
   猛比古(たけひこ)――多久麻同様、旧・鮮麻呂の下臣。

〔各郡の頭領〕――伊治城攻めの後に参軍
    志和の阿奴志己(あぬしこ)
    気仙の八十嶋(やそしま)
    和賀の諸絞(もろしま)
    稗貫の乙代(おとしろ)

〔別格〕物部二風(もののべにふう)、物部天鈴(てんれい)
       蘇我氏により都を追放された物部氏の子孫。
       採掘した黄金により都と陸奥を行き来し、蝦夷を援護する。
       阿弖流為軍の本拠となる東和の地を提供する。
  (奥州安倍一族・藤原四代を援護した金売り吉次の祖先?)

780年 再建中の多賀城の完成を遅らせる(朝廷側からの次の攻撃を遅らせる)ための攻撃。
      桃生城を攻めつつ、多賀城に火を放つ。
 
781
年 阿弖流為、飛良手とともに2500頭の馬を引いて冬の栗駒山を越え鬼切部(鬼首)へ。
      征東副将軍・紀古佐美(きのこさみ)の軍勢の急襲に備える。
      (征東将軍は藤原小黒麻呂=ふじわらのおぐろまろ)
      紀古佐美の軍、25,000(内、騎馬軍2,500)が伊治城の北方一刻半の位置(現在の宮城岩手県境あたり)に進軍。

 迎える阿弖流為軍、4,000(騎馬軍2,500)。
      阿弖流為軍の戦死者76名。朝廷軍、戦死約600名、負傷者3,000人。
      阿弖流為軍の歴史的勝利。
      藤原小黒麻呂からの朝廷への報告は「対等の戦」。
 
  以後、陸奥按察使兼鎮守将軍に大伴家持(おおとものやかもち)が赴任、7年間の平穏。
 
788
年 桓武天皇、多賀城に50,000の兵を動員。
      紀古佐美、征東将軍就任。
 
789
年 安倍墨縄
(多賀城軍)、2,000を率い巣伏にて日高見川(北上川)渡河を決行。
      上流から流れてきた大木の群れに遭遇。
      ほぼ同時に対岸から1,000の騎馬軍からの火矢を浴びる。
      入間広成
(多賀城軍)、歩兵4,000を率いて鵜の木で渡河。
      巣伏から流れ着いた流木
(阿弖流為軍が流した大木の群れと壊れた安倍墨縄軍の筏)に筏を流される。
      退路を断たれたのを知らずに進軍していくと2,000の騎馬軍に遭遇。
      河へ戻って泳いでの渡河を試み自滅的に壊滅。
 
     朝廷軍、戦死・溺死者1,061名。阿弖流為軍の戦死者89名。
  阿弖流為軍の大勝利。
      紀古佐美、帰都後、仏門へ。
 
同年秋 阿弖流為、母礼、伊佐西古、天鈴に導かれ長岡京へ。
      坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)と会う。
      阿弖流為にとっては再会。(田村麻呂の父、苅田麻呂が征東将軍だった少年時代に会っている)
      なぜ桓武天皇が蝦夷攻略に躍起となり始めたか、田村麻呂の口から聞かされる。
      ――平安京への遷都を推し進めるためには朝廷の威厳を高める必要がある。
         その「材料」とされる蝦夷。
  
      都から帰り、志和の阿奴志己が東日流(つがる)の赤頭にそそのかされ朝廷側に
      付いたことを聞かされる。
      赤頭――都並みの町、東日流を治める棟梁。
            戦乱から遠く離れた地で安穏の立場→阿弖流為たちの戦いに否定的。
 
793
年2月 坂上田村麻呂、征東副将軍を任ぜられ、多賀城に入る。
      征東将軍は大伴弟麻呂
(おおとものおとまろ)。
      田村麻呂、地勢を完璧に掌握する等、慎重論を唱え、軍議から外される。

      阿弖流為軍、束稲山・東岳に次々に砦を建造。
      田村麻呂を外した10万の弟麻呂軍、衣川に陣を張る。
   3月 飛良手と猛比古が500を率いて衣川の弟麻呂軍を急襲、150の馬を奪う。
      弟麻呂、腹いせに(無人となった)衣川の町を焼き討ち。
      副将軍・百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)率いる5万が束稲山を攻撃。
 
     阿弖流為軍、数々の奇策・奇襲、伊佐西古、俊哲の目の前まで迫る
      朝廷側の死者10,000、蝦夷側550――阿弖流為軍の大勝利。
  弟麻呂、「勝利」を朝廷に報告し、遷都の祝いとする。
 
796
年 坂上田村麻呂、陸奥按察使
(むつのあぜち)、陸奥守(むつのかみ)、鎮守将軍として多賀城に赴任。
798年 坂上田村麻呂、ついに征夷大将軍に。
799年1月 田村麻呂に、「
阿弖流為・母礼・伊佐西古孤立」の報告が届く。
800年10月 田村麻呂一番の家臣・御園、束稲山・東岳の砦を燃やす。
801年1月 伊佐西古、1,600の江刺軍を胆沢の柵に移動。
      胆沢・黒石・江刺による最終蝦夷軍、4,000となる。
   3月 田村麻呂軍40,000、衣川に進軍。前沢に陣を置く。
      阿弖流為と母礼、3,000の騎馬軍で前沢の陣を急襲。
      田村麻呂、5,000の騎馬軍を出し迎え撃つ。
      最初にして最後の平地における真正面からの蝦夷軍対朝廷軍。
      両者ほぼ同数の犠牲者、田村麻呂にとっては屈辱。
  阿弖流為軍、東和の金成山の砦に退却。
 
 
      胆沢に入った田村麻呂、和賀・閉伊・志和・気仙・稗貫・岩手の長(おさ)を招き、
      朝廷から和議を取り付けることを約束する。
  

   8月 田村麻呂、8,000の兵を東和に進める。兵団の指揮は御園。
      伊佐西古、猛比古と共に3000を率いて砦を出る。
      伊佐西古(43)、御園と相討ちして果てる。猛比古も戦死。
      朝廷側死傷2,000、蝦夷側400。
 
802
年3月 阿弖流為軍に加わらなかった蝦夷達(和賀・閉伊・志和・気仙・稗貫・岩手)との
        和議を取り付けた田村麻呂、都から多賀城へ戻る。

        阿弖流為軍がさらに半減(→約1,800)したと聞かされる田村麻呂。
    4月 胆沢の柵に戻った田村麻呂の元に飛良手が遣わされ、阿弖流為からの要望を伝える。
        ――最終的に残った1,000の兵を許すなら阿弖流為・母礼ほか主だったもので投降する。
 
    4月15日 阿弖流為、胆沢と黒石の450に将50を引き連れ正式に投降。
           阿弖流為と母礼以外は開放される。
     8月13日 河内にて、埋められて晒された阿弖流為
(39)と母礼(47)、鋸引きにて斬首。
           刑場に晒された二人の首の前で、飛良手
(47)、田村麻呂の介錯を受ける。