脳みそなんてなくても生きていける。そのことを証明するためだけに生きているような気がする今日この頃、みなさまに置かれましてはどんな感じなんでしょうか。とか急に質問なんてしてみたくなるのは、相手にしてくれてる人がいると決めつけてるからなんだが、どうだろう、これでいいんでしょうか。
知るか、という声が聞こえてくればこれ幸い、やっぱ俺は一人なんかじゃない、と安堵する。あんどあんどっててめえはあんどだけが喜びか、アンドーナツでも食ってやがれ、とか、そんな声も聞こえる。それが内なる声、すなわち自分の頭の中からこだましてくる声だと気づくまで、さて、あなたは何年かかりましたか。私はなにげに中学二年のあたりで気づきました。
ほら、脳みそがない人間にだって、中学くらい通えたんです。その記憶さえとっておけるのです。この空っぽの頭ん中に。よくできてら。
でもね。
脳みそなんかなくても、誰だって生きていける。でもそれが、十分に満足できる人生かといえばそれは怪しい。それも確かなことではある。悲しいが、哀しいが、仮名Cがそれは認めねばならない。
脳みそがなくても愛想がいいとか、脳みそなんかなくても何にでも真剣に、強い気持ちで取り組むことができる、つまり努力を惜しまない性格である、とか、そういう生き方ができる人はまあ、いい。
でも、俺は、そう、ろくな人間になんない、と母親や小学校の担任に面と向かって言われた人間なのである。
あれは小学校の教師としては、最低の人間だったと俺は今でも思っています。
しかし、どのへんが最低だったのか、なぜ俺は問い質さなかったんだろう。
あ、脳みそがないから、そこまで思いつけなかったんだ。
ああ、やだやだ、脳みそがある人生のほうがやっぱよかったなあ。
(つびこんてにゅーど)