阿弖流為軍戦記 高橋克彦著「火怨」年表 | 愛と平和の弾薬庫

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

阿弖流為(あてるい)軍登場まで
724年 陸奥鎮守将軍、大野東人、多賀城を築城――朝廷統括領域の設定。
749年 小田郡
(多賀城近郊)から大量の黄金産出――それまで黄金は唐から輸入するしかなかった。
    小田郡完全制圧。名取に軍団を組織。桃生城築城――朝廷による陸奥簒奪
(さんだつ)の開始。
    蝦夷の豪族を取り込み始める――蝦夷による蝦夷鎮圧。

770年 蝦夷鎮圧を役目としていた宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみ・うくはう)が任を放棄、陸奥へ帰還
774年 蝦夷、桃生城を攻撃――蝦夷ののどかな時代の終焉。
    以降、陸奥国、出羽国の各所で小ぜり合いが続く。

阿弖流為軍の登場
780 朝廷、胆沢(現・水沢市内)に築城(覚べつ城)を計画。
 朝廷側に身を置き時節到来を待っていた伊治公鮮麻呂(これはるのきみ・あざまろ伊治城を任されていた鮮麻呂)

     胆沢の阿弖流為を中心とする蝦夷軍の援護を得て、 陸奥鎮守将軍・紀広純(きのひろずみ)道嶋大楯(みちしまのおおたて)の首を取る。
  紀広純――陸奥鎮守将軍、陸奥按察使、内裏の参議
 道嶋大楯――牡鹿出自で朝廷側に組し大出世を果たしていた道嶋嶋足
(みちしまのしまたり)の弟。牡鹿郡大領

阿弖流為軍
   阿弖流為――胆沢を治める阿久斗(あくと)の跡取り。伊治城攻めの時、18才。
   母礼(もれ)――黒石の那珂禰(なかね)の跡取り。
             超切れ者の策士。阿弖流為の右腕となり、陰から軍を統率する。
   伊佐西古(いさしこ)――江刺の頭領。伊治城攻めの後に参軍。
   飛良手(ひらて)――鮮麻呂の密謀を多賀城に密告しようとした阿久斗の側臣。
                阿弖流為に捕えられるが、阿弖流為の懇願により阿久斗に許され、
                以後、阿弖流為に命をあずける下臣となる。
   多久麻(たくま)――伊治城攻略の密謀を胆沢に伝令した鮮麻呂の下臣。
   猛比古(たけひこ)――多久麻同様、旧・鮮麻呂の下臣。

〔各郡の頭領〕――伊治城攻めの後に参軍
    志和の阿奴志己(あぬしこ)
    気仙の八十嶋(やそしま)
    和賀の諸絞(もろしま)
    稗貫の乙代(おとしろ)

〔別格〕物部二風(もののべにふう)、物部天鈴(てんれい)
       蘇我氏により都を追放された物部氏の子孫。
       採掘した黄金により都と陸奥を行き来し、蝦夷を援護する。
       阿弖流為軍の本拠となる東和の地を提供する。
  (奥州安倍一族・藤原四代を援護した金売り吉次の祖先?)

780年 再建中の多賀城の完成を遅らせる(朝廷側からの次の攻撃を遅らせる)ための攻撃。
      桃生城を攻めつつ、多賀城に火を放つ。
 
781
年 阿弖流為、飛良手とともに2500頭の馬を引いて冬の栗駒山を越え鬼切部(鬼首)へ。
      征東副将軍・紀古佐美(きのこさみ)の軍勢の急襲に備える。
      (征東将軍は藤原小黒麻呂ふじわらのおぐろまろ
      紀古佐美の軍、25,000(内、騎馬軍2,500が伊治城の北方一刻半の位置(現在の宮城岩手県境あたり)に進軍。

 迎える阿弖流為軍、4,000(騎馬軍2,500
      阿弖流為軍の戦死者76名。朝廷軍、戦死約600名、負傷者3,000人。
      阿弖流為軍の歴史的勝利。
      藤原小黒麻呂からの朝廷への報告は「対等の戦」。
 
  以後、陸奥按察使兼鎮守将軍に大伴家持(おおとものやかもち)が赴任、7年間の平穏。
 
788
年 桓武天皇、多賀城に50,000の兵を動員。
      紀古佐美、征東将軍就任。
 
789
年 安倍墨縄
(多賀城軍)2,000を率い巣伏にて日高見川(北上川)渡河を決行。
      上流から流れてきた大木の群れに遭遇。
      ほぼ同時に対岸から1,000の騎馬軍からの火矢を浴びる。
      入間広成
(多賀城軍)、歩兵4,000を率いて鵜の木で渡河。
      巣伏から流れ着いた流木
(阿弖流為軍が流した大木の群れと壊れた安倍墨縄軍の筏)に筏を流される。
      退路を断たれたのを知らずに進軍していくと2,000の騎馬軍に遭遇。
      河へ戻って泳いでの渡河を試み自滅的に壊滅。
 
     朝廷軍、戦死・溺死者1,061名。阿弖流為軍の戦死者89名。
  阿弖流為軍の大勝利。
      紀古佐美、帰都後、仏門へ。
 
同年秋 阿弖流為、母礼、伊佐西古、天鈴に導かれ長岡京へ。
      坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)と会う。
      阿弖流為にとっては再会。(田村麻呂の父、苅田麻呂が征東将軍だった少年時代に会っている)
      なぜ桓武天皇が蝦夷攻略に躍起となり始めたか、田村麻呂の口から聞かされる。
      ――平安京への遷都を推し進めるためには朝廷の威厳を高める必要がある。
         その「材料」とされる蝦夷
  
      都から帰り、志和の阿奴志己東日流(つがる)の赤頭にそそのかされ朝廷側に
      付いたことを聞かされる。
      赤頭――都並みの町、東日流を治める棟梁。
            戦乱から遠く離れた地で安穏の立場阿弖流為たちの戦いに否定的。
 
793
2月 坂上田村麻呂、征東副将軍を任ぜられ、多賀城に入る。
      征東将軍は大伴弟麻呂
(おおとものおとまろ)
      田村麻呂、地勢を完璧に掌握する等、慎重論を唱え、軍議から外される。

      阿弖流為軍、束稲山・東岳に次々に砦を建造。
      田村麻呂を外した10万の弟麻呂軍、衣川に陣を張る。
   3月 飛良手猛比古が500を率いて衣川の弟麻呂軍を急襲、150の馬を奪う。
      弟麻呂、腹いせに(無人となった)衣川の町を焼き討ち。
      副将軍・百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)率いる5万が束稲山を攻撃。
 
     阿弖流為軍、数々の奇策・奇襲、伊佐西古、俊哲の目の前まで迫る
      朝廷側の死者10,000、蝦夷側550――阿弖流為軍の大勝利。
  弟麻呂、「勝利」を朝廷に報告し、遷都の祝いとする。
 
796
年 坂上田村麻呂、陸奥按察使
(むつのあぜち)陸奥守(むつのかみ)、鎮守将軍として多賀城に赴任。
798年 坂上田村麻呂、ついに征夷大将軍に。
799年1月 田村麻呂に、「
阿弖流為・母礼・伊佐西古孤立」の報告が届く。
80010月 田村麻呂一番の家臣・御園、束稲山・東岳の砦を燃やす。
801年1月 伊佐西古1,600の江刺軍を胆沢の柵に移動。
      胆沢・黒石・江刺による最終蝦夷軍、4,000となる。
   3月 田村麻呂軍40,000、衣川に進軍。前沢に陣を置く。
      阿弖流為母礼3,000の騎馬軍で前沢の陣を急襲。
      田村麻呂5,000の騎馬軍を出し迎え撃つ。
      最初にして最後の平地における真正面からの蝦夷軍対朝廷軍。
      両者ほぼ同数の犠牲者、田村麻呂にとっては屈辱。
  阿弖流為軍、東和金成山の砦に退却。
 
 
      胆沢に入った田村麻呂、和賀・閉伊・志和・気仙・稗貫・岩手の長(おさ)を招き、
      朝廷から和議を取り付けることを約束する。
  

   8月 田村麻呂、8,000の兵を東和に進める。兵団の指揮は御園。
      伊佐西古、猛比古と共に3000を率いて砦を出る。
      伊佐西古43)、御園と相討ちして果てる。猛比古も戦死
      朝廷側死傷2,000、蝦夷側400
 
802
3月 阿弖流為軍に加わらなかった蝦夷達(和賀・閉伊・志和・気仙・稗貫・岩手)との
        和議を取り付けた田村麻呂、都から多賀城へ戻る。

        阿弖流為軍がさらに半減1,800したと聞かされる田村麻呂。
    4月 胆沢の柵に戻った田村麻呂の元に飛良手が遣わされ、阿弖流為からの要望を伝える。
        ――最終的に残った1,000の兵を許すなら阿弖流為・母礼ほか主だったもので投降する。
 
    415日 阿弖流為、胆沢と黒石の450に将50を引き連れ正式に投降。
           阿弖流為と母礼以外は開放される。
     813日 河内にて、埋められて晒された阿弖流為
39と母礼47、鋸引きにて斬首。
           刑場に晒された二人の首の前で、飛良手
47、田村麻呂の介錯を受ける。