太田幸司を擁した三沢高校(青森)が延長18回を0-0で引き分け、翌日の「引分け再試合」で負けたのが1969年だというから、俺は十歳だったわけだが、その試合をどんな思いで見ていたかはまったく覚えていない。
磐城高校の田村がなぜ「小さな大投手」と呼ばれたのかは知らなかったが、その決勝戦を見ていた時の様子は何気に覚えている。十二歳なんだからもうちょっとしっかり覚えていてもよさそうなものだが、なにせバカなので一人でじっとテレビを記憶だけがしっかり脳みその底に沈んでるだけなんだが。
今回の育英の快挙に際して皆さんは「白河の関越え」という言葉を使うけれど、その言葉がどこか俺にはストレートに入ってこなかった。俺にとって甲子園の優勝旗は「勿来の関」を越えて入ってくるものだとばかり思っていたのだ。なぜ白河じゃなくて勿来になっちまったのかは、小学六年のガキの耳にしっかり「勿来の関を越えず!」という言葉がこびりついていたからだ。
優勝旗が磐城高校の手にもたらされた時、それは現在いわき市の一部となっている勿来の地を越えて入ってくるものだったから、アナウンサーがしきりに「勿来の関」と言っていたんだと、たぶんそうなんだと、今回の快挙に際して思い至ったのでした。
それから延々50年の年月が流れて……ああ、わたしゃ63才だってさ。しかし、生きてるあいだに見られたんだから奇跡のようなもんだ。
大越基、ダルビッシュ、菊池雄星、田村と北條、吉田輝星、そしてそいつらのチームメイトたちが手に仕切れなった栄冠を、淡々と投げ続ける斉藤蓉とその大いなる仲間たちはがっちりとその手中に収めた。
その瞬間――深紅の優勝旗が、坂上田村麻呂(桓武天皇)や頼朝から東京電力にいたるまで数々の「侵略者たち」に踏みにじられてきた東北の地にやって来ることが決定した瞬間、50年の記憶はどんだけ俺を泣かせるんだろうと思って、妻の隣りで俺はちょっとびびっていた。しかしその瞬間、俺はすっと楽になった。あれ?ってなもんだ。心の奥から何かがすっと抜け落ちた。そんな感じに包まれたのだ。待ちに待ったその瞬間がついにどっかーんとやってきたのに、である。
手かせ、足かせ、心の奥底にあった重し、不必要な、本来いらなかった何か、そんなものからすべて解放された、そんな感覚。
ほんとにおめでとう!だったのだ。俺たちにとって彼らの快挙は!