ずいぶん前。
まだ、一日走ってちょっと頑張れば五万も稼げるような時代。
いや、時代なんていうと大げさだけど。
午後10時ぐらいかなあ、街なかから南西のほうへ2500円ぐらいのお客さんを乗せてって、その帰り、
平行してバイパスが走ってる国道の旧道、片側一車線の古い道路を走ってたの。
ぽつぽつと店が並んでるような町並みだけど、そんな時間になると真っ暗な道でね、
客なんかいないって思い込んで少々飛ばし気味で走ってたらさ、いたの、お客さん。
ジャージのズボンにタンクトップの、おじさん一歩手前って感じの男の人が手を上げてる。
近づいていくと、ちょっと髪の毛が危ない感じ。
いや危ないって言うのは、ほれ、薄いってほうの。
はいはいってドアを開けたよ。
「はいどーぞー。で、どちらまで……?」
すると、行き先をまだ決めてない様子。
いや、いるのよ、そういう人、タクシー止めといて、実は行き先はまだ決めてないって人。
ちょっとイラついて何て言うのか待ってたら、
「う~ん、食事したいんだけどさあ、どこかいいとこ知らない?」
そんなこと言われたってねえ。
「食事ですかあ?」
こんな言葉しか、こっちとしちゃ浮かばないさ。
でもそれじゃ先に進まないんで、
「街場のほうに向かいますか?」
って聞いたら、こうきた。
「ねえねえ、一緒に食事してよ」
は? だよねえ。もいっちょ。は?
でも「は?」なんていってる場合じゃないって、すぐに気づいちゃった。
お、おれは誘われてるのか?
その通り。
「ねえ、ちょっとぐらいいいさ?ね、一緒に食事、いいでしょ?」
タンクトップに下はジャージ、ちらっと見れば胸板はガッチリ。で、ハゲ。
や、やば!
よく見りゃ、何気に典型的なゲイ・オヤジじゃん!
「いやあ、仕事中ですから、それはぁ」
でも曖昧に言葉を濁したぐらいじゃ全然ダメ。
「ねえ、行こうよぉ。いいじゃな~い。ねえ」
なんだか、お尻のあたりがムズムズしてきた。
なんつったって、筋肉モリモリのおにいさんに、ねぇ~、なんて言われるの生まれて初めてだし。
むずむずむずむず。
体の奥のほうから、いや、体の下のほうから、むずむずむずむず。
こ、これは貞操の危機じゃ!
体がそう叫んでる。
「すいません!忙しいんで、すいませんけど、付き合えませんので、降りてください!」
降りてくださいなんて、自分でもよく言ったと思うよ。客に、降りてください、だからねえ。中々言わない。
はじめは、
「え~!?」
とか言ってたけど、俺に脈がないと悟ってくださったんだろうね、
「そうお~……」
って言いながら降りてくださいました。
飛ぶようにその場を走り去ったのは言うまでもありません。
体の、おへその下の、後ろのほうからブルブル震えがきて、なかなか収まらなかったよねえ、
あん時ばかりは。
でも、男も一生に一度はああいう、いわゆる「貞操の危機」っての、味わったほうがいいかもね。
いや、今だからこんなに落ち着いて言えるんだけどさ。