生まれたばかりの赤ん坊を引き連れて過ごした懐かしき日々の思い出ばなしに没入し続けるふがふがは、なかなか自分が誰なのかを名乗ろうとしなかった。電話口には徐々に、実の親だと名乗る男の傲慢ささえ漂いはじめていた。その勝手気ままさが許せなかった。
勝手気ままと言えばこんなふうに突然電話をかけてきていきなり「実の親宣言」をかましてくれるところからして実に勝手と言うか、俺には実に自由気ままな男に思えた。俺も人のことは言えないけれど、相当に精神年齢の低いジジイだ。なるほど、本当に実の父親なのかもしれない。
だとしたらなおさら、と俺はこめかみのあたりに力がこもるのを感じた。この俺にちょっと似た所がないでもない男をこのままのざばらせてはおけない。がっちり話の腰を折るのだ。そして名乗らせるのだ。そんな気分がこめかみをぎすぎす言わせはじめていた。そしてやっと聞き出した名前は「スズキ」だった。
とてもまともには聞いていられない話を語り続ける男の名前など実の所どうでもよかった。とにかく黙らせたい、自由気ままな脳みそに水をぶっかけたい、そう思って名乗らせただけだった。けれど「スズキ」という名前を耳にした瞬間に俺は微妙な気分の変化を自分の中に認めないわけにはいかなった。
落胆だった。どこにでもあるその苗字に俺は、ちょっとんべんしてくれよ。不覚にもそう思ってしまったのだ。
感じてはいけない落胆だった。そんな所で落胆してしまうということは、ふがふがの言っている赤ん坊を自分だと認めているということに他ならないのだ。
けれど俺はがっかりした。それは紛れもない俺の感情だった。
俺は史塚和博だ。戸籍上それ以外の何ものでもないんだが、もしそれでなかったとしても山本でしかありえない。そんなふうに信じて生きてきた。俺の母親は史塚、父親は山本。
ところが、「スズキ」……そんな名前が絡んできやがった。
スズキだって!?
こんな憤りがひとつの事実を表していた。俺はふがふがを、ふがふがスズキを、もうすでに少なくとも肩のはしっこあたりに乗せてしまっている。
不愉快だった。スズキという名前そのもの。そしてそれを自分に近いものとして受け入れはじめている自分。
電話のはじめあたりで俺は、実はこの男のことを思い出していた。ここ十年ほどのあいだに二度三度、電話をかけてきていたことがあったのだ。しかし、これまで電話をよこした時とは話の内容が違いすぎた。これまではおふくろのむかしなじみなのだろうぐらいにしか思えない電話の内容だったのだ。この街からトンズラを決めたおふくろの行き先でも聞き出そうと、電話帳で珍しい苗字を見かけて電話をよこした、どうでもいいじいさんぐらいの記憶しか残っていなかった。
おふくろが言っていたことも思い出した。
「○○○さんっていう人が電話かけてきたりしたら何でも相談してみな。話ぐらいは聞いてくれると思うから」
ぼんやり話半分にしか聞いていなかったから○○○の部分はすっかり忘れていたが、そうかもしれない、きっと「スズキ」だったのだ。
不愉快に、しかしやんわりと事実が溶け合っていくような感覚がこれまた不愉快だった。不愉快さのすべての根源は、「おとうさんは死んだと思ってるんだろうけど、実は生きてるんだよ……」という言葉が胸に突き刺さった瞬間、その突き刺さった風穴から吹き出してきた混乱に端を発していた。
夢にでも迷い込んだかのような混乱だった。
願っていたことが現実になった――まずはじめに吹き出してきたのはそんな感慨だった。熱い、感動にさえ似た感覚だった。願うことは現実になる――誰かのそんな言葉が頭の中を縦横に突っ切った。
頭に広がった映像は、おやじの葬式の日の、その日初めて見た、大きな「おばあちゃんの家」だった。
熱くなった頭に叫びが満ちた――実はおやじは自殺などしていなかったのか?死んでなどいなかったのか?現実から離れて、すべてから逃れて、実は生きていたのか?会いたい……。おやじに会いたい。それが俺が望んでいたすべてなんだ!
けれどふがふがの話は俺が望むものからどんどんかけ離れていった。あげくの「スズキ」だった。
頭の中が急速に冷凍化していった。
俺は史塚だ!山本の子だ!スズキなんかじゃねえ!
(きっと、つづく)