英国のEU離脱案の承認の後、「オールド・ラング・サイン」を合唱する欧州議会の議員ら
イギリスがEUを離脱した1月31日前後に、あちこちで歌われたのが「オールド・ラング・サイン」です。「蛍の光」の原曲ですね。もともとはスコットランド民謡です。この歌は、親しみやすいが故に、政治的に利用されてきた歴史があります。
ブリュッセルの欧州議会では、英政府と欧州連合(EU)の離脱協定案が承認された1月29日、議員たちが合唱しました。日本人なら「英国さようなら」と受け止めるところですが、どうも、そういう意味だけではなかったようです。
離脱案が可決される前段として議場に混乱がありました、英国の代表が、もうこれでEUにいじめられることはない、英国にとって離脱は万事良しだ、と演説し英国議員団とともにユニオンジャックの旗を振りました。これを見た副議長はやめるように注意しましたが、それでもやめなかったためマイクを切られ、その後、再招集されて可決されたのです。「オールド・ラング・サイン」は誰が歌い始めたのか。やがて手をつないで大合唱になりました。
英国を除く欧州各国の議員は、離脱を歓迎して賛成票を投じたわけではありません。「合意なき離脱」になると困るのでやむなく賛成したのでした。スコットランドでは、英国からの独立とEU残留を願う声があります。同国で「友情の歌」であり、愛唱されて準国歌のようになっているこの歌を、こうした場面でうたうのは、スコットランドへの共感、英国に対する皮肉という意味合いもあります。
議員たちの胸中は複雑だったことでしょう。怒りを込めた皮肉に加え、「友・英国」の離脱への悲しみ、長きにわたって協議してきた英国が去ってせいせいしたという気持ち、さあ新しいEUの出発だと意気込む気持ち、いろんな感情が混じり合っていた。合唱には英国議員も加わっていましたが、彼らは高揚して「激励」と受け止めたことでしょう。感極まって涙ぐみ人もいました。
政治の場でこれほど多義的な形で音楽が持ち込まれることは珍しいでしょう。「蛍の光」のメロディーを聞くだけで涙腺が緩む私は、ニュース番組でこの異様な光景を見て、半泣きになりながら戸惑ってしまいました。
一方、スコットランドでは、離脱の日の31日、エディンバラの議会の前に集まった人々がこの歌をうたいました。意図は明確です。スコットランドの英国からの独立とEUへの再加盟を願っているのです。
■「友情の歌」の旅
ロバート・バーンズ
スコットランドで「オールド・ラング・サイン」(Auld Lang Syne)は、新年や誕生日とか結婚式とか、門出やおめでたい席の定番でした。作詞したのは、「スコットランド最愛の息子」と呼ばれ、ウイスキーを愛した詩人、ロバート・バーンズ(1759~96)です。
「Auld Lang Syne」はスコットランド語で、英語では「Old Long Since」となります。内容は、子供時代にいわば「スタンドバイミー」のような冒険をした旧友と会って、昔を懐かしんで一献傾けるというものです。バーンズは1788年に詩を書きました。19世紀になって、スコットランドの新年行事であるホグマネイに取り込まれ、年が変わる頃に人々は輪になって腕を交差させてうたうようになりました。今日でもその伝統は続いています。
作曲者は不明ですが、親しみやすい旋律は民族を越えて浸透し、韓国やモルディブでは国歌のメロディーであった時期があります。
ガイ・ロムバード
米国でメジャーになったのは、20世紀になってからです。米国の新年のカウントダウンイベントにも欠かせない歌となりました。イタリア系のバイオリニスト、ガイ・ロムバードと彼のバンド「ロイヤル・カナディアンズ」が1929年から76年まで半世紀近く、大晦日番組(最初はラジオ、後にテレビ)で演奏したのです。彼は、「Mr. New Year's Eve」(ミスター大晦日)と呼ばれました。
NYのタイムズスクエアの新年イベントではでは、カウントダウンが終わってから「オールド・ラング・サイン」がうたわれます。米国では、行く年に思いを致すより、来る年を祝う歌なのですね。別れは出会いの始まりともいいますが、時間の節目には二重性があって、「蛍の光」と「オールド」は向きが真逆になっているのです。米国人にとっては、紅白歌合戦のラスト、31日午後11時44分は「フライング」であり、日本人にとっては、1日午前0時のタイムズスクエアの斉唱は「蛍光灯」なのです。
■蛍の光と軍国主義
日本人と欧米人とで捉え方が違うのは、詩のためです。「蛍の光」の詩は翻訳とは言えず、「オールド・ラング・サイン」に「なんとなく通じるものがある」程度のものです。「蛍の光」は、尋常小学校唱歌として稲垣千頴が作詞し、明治14年(1881)の歌集に掲載されました。「オールド・ラング・サイン」が、時を隔てた友との再会の歌なのに対して、「蛍の光」は、別れゆく学友への惜別の歌であって、「蛍雪の功」の故事に依るなど東洋的価値観に彩られ、国家主義的性格の強いものになっています。
オリジナル曲の3、4番は、どこへ行ってもお国のために尽くせ、というものです。戦後は国家主義的な3、4番を切り捨てられ、1、2番だけ生かした「別れの歌」になりました。しかし、こうした唱歌によって国家主義を刷り込まれた若者たちの多くが命を失ったことから、「蛍の光」を「戦犯音楽」とする見方が根強く残ったのです。沖縄県糸満市にある平和祈念資料館には、「蛍の光」と軍国主義の関係を告発する展示がありました。
(3番)
筑紫の極み陸の奥
海山遠く隔つとも
その真心は隔て無く
一つに盡くせ國の為
(4番 )
千島の奧も沖繩も
八洲の内の護りなり
至らん國に勳しく
努めよ我が兄恙無く
「オールド・ラング・サイン」はアジアの東端で子供の歌に翻案されて政治に巻き込まれていくのでした。つぐづく政治に縁のある歌です。
■「音楽の力」嫌い
2月2日の朝日新聞の文化面に坂本龍一氏のインタビューが載っていました。東日本大震災の被災3県の子供たちで「東北ユースオーケストラ」を結成し、音楽監督として子供たちを指導する坂本氏ですが、「音楽の力」という言葉が嫌いなのだといいます。
「音楽の社会利用、政治利用が僕は本当に嫌いです」。それには、ナチスドイツがワーグナーを宣伝に利用したことが念頭にあるようです。「音楽には暗黒の力がある」とも。
音楽には必ず癒せるといった絶対的な力はなく、感動するかしないかは個人によって違う。ある時感動しても、別の時には心が動かないこともある。感動は作る側の作為によって生まれるのではなく、受け手側の個性と状況にかかわるものです。「音楽家が癒してやろうなんて考えたら、こんなに恥ずかしいことはないと思うんです」。坂本氏は、音楽家の尊大を戒めます。
坂本氏の見解は、「蛍の光」の今昔にも通じます。音楽によって聴き手の気持や考え方を変えてやろう、とするのは他者の在り方、他者の感性を軽んじることでしょう。音楽は音楽として楽しみたい。政治の場で流れる音楽は警戒しなくてはならないのです。