前回の更新においては、ミナミセンプウのテレカを4枚まとめて上げました。


ある意味、良いきっかけとも言えるので、今回は1990年代半ばに一時代を築いたミナミセンプウを紹介したいと思います。




まずは血統面から。


父はアラブ血量(※1)が25%のフアストセンプウ。

道営所属で1980(昭和55)年の川崎・全日本アラブ争覇を制し、ライバルの大井・全日本アラブ大賞典優勝のエゾノランナーや同レース2着2回・3着1回のイワミボーイーらとしのぎを削って、道営アラブ黄金期を支えた名馬でした。

※1 アラブ血量については、『Brown The Slugger ブラウンバツト ①』でも触れましたので、ご参照ください。


母はアラブ血量29.62%のクインブルシヨワ。

3代母シマウタから広がった一族には、1987(昭和62)年の園田・楠賞全日本アラブ優駿と西日本アラブダービーを勝ったダンデイダイドウや、モナクカバキチの父としても知られたホマレブルシヨワなど、数多くの駿馬が名を連ねており、アラブが盛んだったころには名牝系として知られていました。



父系は、3代父のDjerba Oua ジェルバワから本邦輸入種牡馬アリラバツト Ari Rabatが輩出されています。


おっ、アリラバツトといえば、福山競馬史上最強ステイヤーのブラウンバツトですね!

つまり、父系はスタミナを武器にしていると言えるのではないでしょうか。


一方、母母父のセイユウ(アラブで唯一のJRA殿堂入り)と、3代母のシマウタは、ともにアラブ血量25%。

規定ギリギリの血量をつなぐ、スピード色の濃い母系と言っても良いかもしれません。


これらを考えると、スピードとスタミナのバランスを狙っての配合だったのかもしれませんね。



前置きが長い… (´・ω・`)




さて、ミナミセンプウは父と同じホッカイドウ競馬(※2)に所属し、1993(平成5)年5月、帯広競馬場で新馬戦に勝利しました。

このとき背にした井上俊彦騎手は、今も現役。

まさにレジェンドですね!

※2 フアストセンプウのころはまだ道営競馬の呼称でしたが、1987(昭和62)年度からホッカイドウ競馬に変わりました。



当時開催のあった帯広、岩見沢、旭川、そして札幌の4つの競馬場すべてで勝利するなどの活躍を見せたミナミセンプウでしたが、重賞ではヤマノジョージ(同じフアストセンプウ産駒)、翌年の道営アラブ三冠馬ミヤコスイセイにはどうしても歯が立ちませんでした。


旧3歳時は12戦4勝。

ミヤコスイセイが川崎・全日本アラブ争覇に遠征して凱歌を揚げた1993年のシーズンオフ、福山へトレードされ無冠のまま北の地を去るミナミセンプウの姿に、陰と陽の対比を感じた人もいたかもしれません。

 

 

しかし、これがミナミセンプウにとって、大きな大きな転機となりました。



明けて4歳となった1994(平成6)年、3ヶ月半の休養でいきなり古馬C2級へ編成されるも1着→2着→1着として、あっさりC級を卒業。

次に迎えた第21回福山ダービーは、連戦の疲れが意外に残っていたようで、後方に置かれる厳しい展開となり、単勝7番人気ピアドタイトルの激走を許す4着に。


さらにその次は、何と園田競馬場への遠征となる、第33回楠賞全日本アラブ優駿。

福山ダービーの上位3頭は最初から出走の意思なく登録もなかったのか、それとも相手が厳しいと見て回避したのかはわかりませんが、とにかくミナミセンプウは福山競馬場の代表として大舞台に臨むこととなりました。











当日の競馬キンキです(もはや懐かしい響き…)。

 

出走12頭中で短評がないのはミナミセンプウだけという低評価ぶりでした。


しかし、ビシッと追い切った調教内容から状態は上向きだったことがうかがえ、またホッカイドウ競馬時代に輸送には慣れっこだったアドバンテージも大きく、馬体重プラス8キロでの出走。


コノミテイオー・カオリビジン・ヘイセイパウエルの三強絶対ムードの中にあって、単勝10番人気6着と健闘してみせました。




そして、全国レベルの激しいレースを経験したことで、奥底に眠っていた能力が呼び覚まされたのでしょう。

ミナミセンプウは、絶頂期へと突入しました。




(つづく)