やめてみた | 一緒に歩いていこう、またそう言える日まで ~自死遺族の日記~

一緒に歩いていこう、またそう言える日まで ~自死遺族の日記~

反復性うつ病と診断されていただーさん。
闘病5年の末、2017年9月突然私を残し逝ってしまいました。

《一緒に歩いていこう》

これはだーさんと私の闘病ブログのタイトルでした。
今はだーさんの死と自分の生に向き合うブログです。

私。

良く言えば、喫煙者。
悪く言えば、ニコ中です。

入院をして吸えない時期が何回かあっても結局止められなかったし、不妊治療中は吸わなかったけどやめたら反動が来たし、何度か禁煙チャレンジしたけど我慢出来なかったです。

で、依存症は病気なわけですが、それはアルコールもニコチンもクスリもギャンブルもあれやこれやも変わらないわけです。

「止められないのは根性がないだけ」
「止められないのは精神力が弱いだけ」

この言葉に苦しむわけですよね、依存症で罪悪感を持っている人は。

私も、ニコチン依存症の罪悪感を持ってないわけではありません。
でも依存症だから、『続ける言い訳』はいつも頭にあります。
デメリットよりもメリットを優先させています。
否定的な言葉に反応します。

うちは、両親と私だけ喫煙者だけれど、妹2人は一切吸いません。
だからといって嫌煙なわけでもないし、受動喫煙だのなんだのとうるさく言う事もありません。

「吸いたい人には吸いたい理由があるんだろうから吸いたい人は吸えばいい。たまたま私は吸う気がないだけ」
という姿勢。

私の父親は「いつでもやめられるよ」と言って何度かやめるけれど、いつの間にか復活しているし、私の母親は一番下の妹の授乳期を終えてからタバコを吸うようになったけれど、今では「タバコとコーヒーを取り上げられたらストレスで発狂する」と言っているので、十分ニコ中。

私も喫煙歴は長いです。
かなり長いと言った方が良いのかな。

今思えば吸わなきゃ良かっただろうにと思うのだけど、薄れ行く記憶ではあるけれど最初の一服が「ウマい」と思った記憶があるのだから、遅かれ早かれ吸ってたろうなと思います。
法律上違法なわけではないですしね。

私は、吸えない環境に置かれてイライラすることはないんです。
イライラして貧乏ゆすりするわけじゃないし、いてもたってもいられずに喫煙スペースに駆け込むというわけでもない。
だから、飛行機であっても新幹線であっても、長距離移動でタバコを吸えないのは全然平気。

逆に吸える環境にあればパカパカ吸ってしまいます。
ストレスがあれば本数が増えるし、吸える場所なのに吸えないとイライラします。
吸える場所なのに何故我慢しなきゃいけない?と思うと執着してしまうんです。



で、そんな私が昨日からタバコをやめてみました。

別に自分の健康のためなわけではないんです。
長生きしたいというわけでもないし。

健康のためでもないし長生きしたいわけではないけれど、あちこち身体が痛いのはタバコで血流が悪くなっているのも原因のひとつなわけで、痛いのは面倒だし、痛いのを抱えているのを黙っているのもストレスになります。

でもそれ以上の理由があります。



だーさんが言うんです。

本数が多くないかとか、咳してることが増えたよね、とか。

私の身体を心配してくれているのはわかっています。

でも、今の私はどうしてもその言葉が責められているように聞こえてしまうのです。

吸いすぎだ、吸いすぎだ、何でそんなに吸うんだ、と責められているんだと思ってしまうのです。

心が押しつぶされそうになってしまうのです。

まぁ、実際一日1箱ったら吸い過ぎですけど・・・。

何を言ってもニコ中の言い訳になってしまうので、とりあえずやめてみました。


だーさんは、本数を減らせばいいと言いますが、1本吸えば2本吸いたくなるので、私には『減らす事』は無理。
だから、絶つのが一番なのです。


定期的に離脱症状が出ます。

吸いたい吸いたいと脳内がザワめきます。

でも、責められていると思い傷つくよりタバコの離脱の方が楽です。


過去の最長記録は3ヶ月。
最短記録は1日。

今の私。

『みんな頑張ってる、私も頑張ろう』

じゃなくて

『みんな頑張ってるのに私はダメ人間だ』

の闇の中。

「ダメ人間が禁煙中だよ」とかなり卑屈人間になっています。