札幌風料理
高校の同級生で保険の外交員をする鳥辺美奈子を山岡に紹介する栗田。２人に私の家に来て欲しいと頼む美奈子。「私の彼を紹介するわ」「え、あなたの彼に」「お願い。来てほしいのよ」
恋人の多里保を山岡と栗田に紹介する美奈子。「二人は結婚するつもりなの？」「そのつもりだったけど」「みんな僕のせいなんだ」「保さん」「僕は作家志望でね。いろいろ新人賞に応募したけど落ちてばかり。美奈子に出会った頃は作家になる自信があった。背水の陣を敷かなければダメだと思って、会社もやめた。でも結果的に美奈子をだまし続ける結果になった。もうあてのない夢を追うのはやめることにした」「で、どうなさるの」
「僕の友人がハワイで日本料理屋を経営していて働かせてくれると言うんだ」「ハワイへ行くんですか」「冬はイヤだな。特に日暮れ時は。この寒々として景色は今の僕の心そのものだ。冬は大嫌いだ。冬のないハワイに行くよ。ハワイは一年中太陽が輝いて暖かい。希望が湧いてくる」
「じゃ、美奈子もハワイに」「私には仕事と母親がいるもの」「え、それじゃ」「私と保さん、別れることになるわね」「……」「ねえ、河岸を変えて、パッとやらない？多里さんがハワイにいらっしゃるのなら、激励歓送会になるじゃない」「どんなことでも飲み食いの口実に使うのはいいことだよ」
「こういう寒い夜はアンコウ鍋が一番。さあ、どんどんやろう」「保さん、美味しいわね」「ああ、本当に冬は嫌だなあ。寒くてさ」「あら、今年はそんなに寒くないけど」「寒いよ。東京の冬は最悪だよ」「保さんは南方志向なのよね」「へえ。じゃ、冬の北国の楽しみなんか知らないわけ？」「東京の冬だけでも気が滅入るのに、北国の冬だなんてとんでもない。もっと暖かくなる食べ物はないの？」「保さん」「アンコウ鍋より暖かい食べ物となると」
ごめんなさいと山岡と栗田に詫びる美奈子。「不愉快な思いをさせてしまって」「さっき、多里さんが自分で言った通りだよ。多里さんの心の中は冬だ。だから寒くてたまらないんだ」「どうすれば」「むう、多里さんには札幌式で行こう」
美奈子の家に行き、暖房をガンガンにかける山岡。「こんなに暑くしていいの」「もっと暑くてもいいくらいだ」「ただ今」「お帰りなさい」「お邪魔してます」「二人は保さんにご馳走してくださるために来てくれたのよ」「それはすみません。しかしどうしたの。凄く暑いよ。暖房強すぎるんじゃないの」「そんな厚着してるからです。さあ、脱いだ脱いだ」
「まずはビールで乾杯だ」「わあ、凄い。大ジョッキ」「乾杯」「美味しい」「こりゃいいや、真冬のビールがこんなに美味しいとは」「次はこれ。北海道直送の鮭のルイベ。獲れてすぐ凍らせたんだ」「わあ、シャクシャクした歯ごたえが素敵」「こんなに凍ってるから味がしないかと思ったら、甘味があるしこってりしてる」「あら、次はお椀ね」
「おや、これはそうめんかい」「これは魚そうめん。白身の魚をすり身にしてよく練り、卵を加え、それを細い穴から熱い湯に突き出すと、そうめん状になる。今日の魚はタイを使った。澄まし汁は昆布とカツオブシのダシ」「うわあ、すごく冷えてる」「この温度が大事なんだよ。キリキリに澄まし汁も魚そうめんも冷やしてやる、ここまで冷やすと気品が出てくる。これにはよく冷えた純米吟醸酒がすごく合う」「わあ、この吟醸酒もよく冷えて」「ここらで少しお腹にしっかりたまるものといきますか」
氷水の中に生のアジと味噌を入れてかき混ぜる山岡。「さあ、味を見て」「まあ、全然生臭くないわ」「これこそ本物の漁師汁。漁師たちが獲ったばかりの魚で、船の上で作る料理なんだ」「漁師汁にはご飯のお冷がよく合うのよね。そしてこれには吟醸酒じゃダメ。普通の純米酒をヒヤで」
「冷たい汁、冷やご飯、冷や酒。冷たいものの取り合わせがこんなに美味しいなんて」「あれ。そういえば今日の料理は冷たいものばかり」「寒かったかな」「全然。寒いどころかとても気持ちがよくなった。凄く豊かな気分だ」
説明する山岡。「北海道の人々は冬の過ごし方がとても上手なんです。外は凍りついても家の中はストーブをがんがん焚いて、シャツ一枚で過ごせる暖かさ。東京じゃそんなにストーブを焚いたりしないから、札幌の人は東京の冬は寒くてつらいと言う。勿論、札幌の人が実際に今日みたいメニューの食事をしてるわけじゃない。札幌風の冬の過ごし方を応用すれば、こうもできることを試したわけです」
「なるほど。札幌風にやれば、外は冬でも家の中は春ってことだな」「でも心の中が冬だと何をしてもダメだけど」「ぬ。本当だ。美奈子を置いてハワイに行っても、寒いと感じるに決まっている。美奈子、ハワイ行きは取り消しだ。日本で働き口を見つけて、早く結婚できるように頑張るよ」「保さん」「山岡さん、栗田さん。今日の料理はアンコウ鍋の数百倍美味しかった。ありがとう」