ロロモ文庫

ロロモ文庫

いろいろなベスト10や漫画のあらすじやテレビドラマのあらすじや映画のあらすじや川柳やスポーツの結果などを紹介したいと思います。どうぞヨロピク。

10位は<洋式の火のし>と説明されたアイロン。9位は<アイロン用の作業台>と説明されたアイロン台。8位は<はさみ形のてこを使ってパーマをかけること>と説明されたアイロンパーマ。7位は<鍋つかみのような形で、手にはめてアイロン台の代わりに使う>と説明されたアイロンミトン。6位は<音楽で歌いはじめ>と説明されたアインザッツ

5位は<米国の理論物理学者>と説明されたアインシュタイン。4位は<原子番号99>と説明されたアインスタイニウム。3位は<かけ声で1,2,3>と説明されたアインツバイドライ。2位は<感情移入>と説明されたアインフュールング。1位は<感情移入すること>と説明されたアインフューレンとなるわけです。

 

10位は<穀物の種を秋に蒔くこと>と説明された秋蒔き。9位は<秋の神社の祭り>と説明された秋祭り。8位は<秋に鳴く虫>と説明された秋虫。7位は<秋らしくなる>と説明された秋めく。6位は<教育が無くて文字の読めない人>と説明された明き盲

5位は<人の住んでいない家>と説明された空き家。4位は<すぐに飽きて一つのことに集中できない様子>と説明された飽きやすい。3位は<九月から十月ごろにある休み>と説明された秋休み。2位は<眺める対象の秋の山>と説明された秋山。1位は<疑う余地が無いものとして何かが認められる様子だ>と説明された明らかとなるわけです。

10位は<青大豆を粉にしたもの>と説明された青黄粉。9位は<アオギリ科の落葉高木>と説明されたアオギリ。8位は<金銀精錬工程の最終産物で、多少の不純物を含有する金銀合金>と説明された青金。7位は<上を向いて飲む>と説明された仰ぐ。6位は<団扇などを動かして風を出す>と説明された扇ぐ

5位は<軽い身分の公家>と説明された青公家。4位は<青々とした草>と説明された青草。3位は<糊貼りの紙に青色の草で花鳥などの模様を青く擦り付ける染法>と説明された青草擦り。2位は<青物屋>と説明された青草屋。1位は<未熟である>と説明された青臭いとなるわけです。

10位は目に合う。9位は用途に合う。8位は理屈に合う。7位はリズムに合う。6位は理想に合う。5位はしっくり合う。4位は何もかも合う。3位はぴたっと合う。2位は目と目が合う。1位は証言が事実と合うとなるわけです。

10位は手に合う。9位は道理に合う。8位は内容に合う。7位はニーズに合う。6位は場に合う。5位は不思議に合う。4位は味覚に合う。3位は身丈に合う。2位は妙に合う。1位は目的に合うとなるわけです。

10位は嗜好に合う。9位は尺度に合う。8位は趣味に合う。7位は性分に合う。6位は水準に合う。5位は筋書きに合う。4位は背丈に合う。3位はその場の空気に合う。2位は体型に合う。1位は体質に合うとなるわけです。

落合博満は秋田工から東洋大学へ進学しますが、大学を中退し、社会人野球・東芝府中のセレクションの受験を合格し、入社2年目の1975年に四番に定着し、翌1976年に東芝府中は創部23年目で初の都市対抗野球出場を果たし、翌年以降も、都市対抗に日本通運・電電東京の補強選手として3年連続で出場し、1978年ドラフト3位でロッテに入団します。

1980年は5試合連続本塁打のイースタンリーグ新記録を達成して、後期より一軍に昇格し、同年は15本塁打を放ち、1981年は開幕から先発として起用され、シーズンでも初めて規定打席に到達し、打率3割2分6厘で首位打者のタイトルを獲得。1982年は三冠王で獲得したが、チームがBクラスながら、最優秀選手にも選ばれます、

1983年は3年連続首位打者を獲得し、1985年は打率3割6分7厘、52本塁打、146打点の成績で2度目の三冠王を獲得した。打率3割6分7厘は当時の右打者歴代最高打率記録、52本塁打は当時のパ・リーグタイ記録、146打点はパ・リーグ記録で、日本記録となる得点圏打4割9分2厘をマークします

1986年は2年連続で3度目の三冠王を達成(打率3割6分0厘、50本塁打、116打点)。通算三度の三冠王は日本プロ野球界におい落合のみで、2年連続50本塁打はプロ野球史上初でしたが、シーズン終了後の12月23日に牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との交換で、中日へのトレードが決定します。

1987年には、リーグ3位の打率3割3分1厘を記録し、1988年は32本塁打、95打点(共にリーグ2位)でチームの優勝に貢献しますが、打率は2割9分3厘とレギュラー定着以降初めて3割を割り、1989年は打率3割2分1厘、40本塁打、116打点の成績を残して打点王を獲得。両リーグ打点王は史上初で、8月12日の巨人戦では、9回一死までノーヒットノーランを続けていた斎藤雅樹から、逆転サヨナラ3点本塁打を放ちます。

1990年は34本塁打、102打点で二冠を獲得し、両リーグ本塁打王は史上初。1991年は打率3割4分0厘、37本塁打、91打点で本塁打王を獲得し、1992年は22本塁打、71打点の成績で、1984年以来の獲得タイトルなしに終わり、1993年は5月7日の横浜戦で、史上初の両リーグ200本塁打を達成し、同年オフ、巨人に移籍します。

1994年は不調に苦しみながら優勝に貢献し、1995年は打率3割1分1厘、17本塁打、65打点を記録し、4月15日の阪神戦で通算2000安打を達成。1996年は史上7人目の通算500本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成して。同年オフに日本ハムに移籍します。

1997年は大杉勝男に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1000安打を達成しますが、打率2割6分2厘、3本塁打、43打点に終わり、1998年は後半戦ベンチを温める機会が多くなり、この年限りで現役引退し、通算2236試合に出場して、3割1分1厘510本塁打1564打点65盗塁をマークしたわけです。

10位は119試合に出場して3割3分2厘25本塁打75打点6盗塁だった1983年。

9位は120試合に出場して2割9分3厘32本塁打95打点3盗塁だった1988年。

8位は129試合に出場して3割1分4厘33本塁打94打点8盗塁だった1984年。

7位は127試合に出場して3割2分6厘33塁打90打点6盗塁だった1981年。

6位は131試合に出場して2割9分0厘34本塁打102打点3盗塁だった1990年。

5位は128試合に出場して3割2分5厘32本塁打99打点8盗塁だった19822年。

4位は112試合に出場して3割4分0厘37本塁打91打点4盗塁だった1991年。

3位は130試合に出場して3割2分1厘40本塁打116打点4盗塁だった1989年。

2位は123試合に出場して3割6分0厘50本塁打116打点5盗塁だった1986年。

1位は130試合に出場して3割6分7厘52本塁打146打点5盗塁だった1985年となるわけです。

青田昇は滝川中に進学し1940年と1941年の春の甲子園に出場。1941年は優勝候補に挙げられるものの、2回戦で岐阜商業に惜敗。1942年は滝川中学の戦力が充実していましたが、戦況悪化に伴い甲子園大会は春夏ともに中止となり、青田は1942年7月に17歳で東京巨人軍に入団します。

同年の夏季は15打席で無安打に終わりますが、秋季では新人ながらリーグトップの打率3割8分9厘を記。1943年は42打点で打点王のタイトルを獲得しますが、打率.2割2分3厘、本塁打0本は史上最低打率・本塁打での打点王獲得という珍しい記録となりました。

1944年には巨人軍を退団し陸軍航空隊に入隊し、1945年8月15日に終戦の報を聞くと、阪急軍へ入団し、球界に復帰。1946年には3番を打ち、リーグ11位の打率.2割9分4厘を記録。1947年には打率は2割3分3厘と大きく落とす一方で、本塁打はリーグ3位の11本塁打と記録を大幅に伸ばします。

1948年に巨人に復帰し、同年に川上哲治と熾烈な本塁打王争いを演じ、1946年に大下弘が作った20本を抜く当時のプロ野球記録となる25本を記録して、二人で本塁打王を分け合って、打率3割0分6厘で首位打者も獲得し、二冠王となります。

1949年は2割7分5厘28本塁打102打点をマークし、1950年は打率3割3分2厘、33本塁打、134打点と打撃3部門全てでチームトップの成績を残し、1951年シーズンは32本塁打と105打点はリーグトップで二度目の二冠王となり増すが、1952年は打率2割6分、18本塁打と大きく成績を下げ、1953年1月14日、洋松ロビンスに移籍します。

洋松に移ってた1953年は、打率2割4分5厘、9本塁打と更に成績を落としますが、1954年に入ると復調し、長く球団記録となった8月の月間13本塁打を含む31本塁打で3年ぶりに本塁打王を獲得すると、1956年は25本塁打、1957年は22本塁打と2年連続で本塁打王を獲得し、1956年5月6日の広島とのダブルヘッダーで4打数連続本塁打を記録。1958年6月29日の中日戦で二塁へ滑り込んだ際に左足首を骨折し、1958年オフに12年ぶりに阪急に復帰しますが、左足首骨折の後遺症で十分な働きができず、1959年オフに現役引退を表明し、通算1709試合に出場して2割7分8厘265本塁打1034打点155盗塁をマークしたわけです。

10位は118試合に出場して2割3分3厘11本塁打63打点22盗塁だった1947年。9位は103試合に出場して2割6分8厘17本塁打54打点3盗塁だった1955年。8位は114試合に出場して2割6分0厘18本塁打79打点6盗塁だった1952年。7位は129試合に出場して2割7分4厘22本塁打61打点1盗塁だった1957年。6位は129試合に出場して2割5分9厘25本塁打65打点1盗塁だった1956年。

5位は134試合に出場して2割7分5厘28本塁打102打点6盗塁だった1949年。4位は124試合に出場して2割9分4厘31本塁打74打点3盗塁だった1954年。3位は140試合に出場して3割0分6厘25本塁打99打点19盗塁だった1948年。2位は114試合に出場して3割1分2厘32本塁打105打点22盗塁だった1951年。1位は137試合に出場して3割3分2厘33本塁打134打点29盗塁だった1950年となるわけです。

10位は1試合平均得点14.1のユージーン・フェルプス(新潟アルビレックスBB)。9位は1試合平均得点14.5のジェイディエル・コルディリア(金沢武士団)。8位は1試合平均得点14.6のテレンス・キング(トライフープ岡山)。7位は1試合平均得点14.6のアーネスト・ロス(湘南ユナイテッドBC)。6位は1試合平均得点15.3のテビン・オリバー(さいたまブロンコス)。

5位は1試合平均得点18.0のジェイコブ・ポラコビッチ(湘南ユナイテッドBC)。4位は1試合平均得点18.5のアンドリュー・フィッツジェラルド(立川ダイス)。3位は1試合平均得点19.4のジャレミー・コームズ(アースフレンズ東京Z)。2位は1試合平均得点20.8のLJ・ピーク(立川ダイス)。1位は1試合平均得点21.3のテイブリオン・ドーソン(徳島ガンバロウズ)となるわけです。

10位は23勝29敗の岐阜スゥープス。9位は26勝26敗の東京八王子ビートレインズ。8位は26勝26敗の金沢武士団。7位は29勝23敗の東京ユナイテッドバスケットボールクラブ。6位は30勝22敗の立川ダイス。

5位は32勝20敗の新潟アルビレックスBB。4位は34勝18敗のトライフープ岡山。3位は39勝13敗のさいたまブロンコス。2位は39勝13敗の徳島ガンバロウズ。1位は44勝8敗の香川ファイブアローズとなるわけです。