作:雁屋哲 画:花咲アキラ「美味しんぼ(354)」 | ロロモ文庫

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長良川を救え(後)

「あれが長良川の河口堰」「話には聞いていたけど、実際に見ると凄い感じだねえ」「あれが長良川を殺すと言うのかね」「新聞社の人はそれだもんね。何も知らないの?」「長良川の河口堰のことくらい知ってますよ。反対運動のあることもね」「まあ、世の中には政府のすることに反対しなければ気が済まない人は結構いますからね」

そこに現れる河口堰建設促進協議会の理事長の土留。「東京のマスコミの皆さんが当地にお見えになることを前もって知っておりましたら、もっと早くにご挨拶にうかがったのですが。折角の機会ですので、長良川河口堰について、正しくご理解いただくお手伝いをさせてください」「ではお訊ねします。なぜここに河口堰を作らなければならないんですか」「うむ、まず治水です。このあたりの地形を考えてください」

説明する土留。「木曽川、揖斐川、そして長良川の三つの川が、わずかに長嶋町を挟んで入り組んでいます。この地域では河川の改修が昔から大きな課題だったのです。江戸時代にも改修が行われましたが、長良川は木曽川と揖斐川とはっきり分離された今の形になったのは、明治末の治水工事の際で、それ以前は長良川は他の二つの川を入り組んで、まるで網の目のようになっていたんです」

「しかし、これも十分でない。昭和34年の伊勢湾台風の時には、高波と大雨による洪水とで、このあたり一帯は水に呑まれてしまった。伊勢湾台風の後も、何度か洪水に見舞われた。これ以上の災害を防ぐためには、この長良川をなんとかしなくてはならないのです」

「で、どうするかです。方法は三つある。第一に堤防をもっと後ろに引いて、川幅を広げる。しかし、そのためには堤防近くの住民に立ち退いてもらわねばならず、現実的ではありません。第二に堤防を高くする。しかし工業用水の目的で長嶋町では地盤沈下が甚だしく、長良川流域の土地では地面が川床より低いところが多い。そんなところで堤防を高くすると、川の水位が高くなるから、今より大量の水が頭の上を流れることになります」

「すると第三の方法しかない。それは川底の浚渫です。川底を掘って深くしてやれば、今より多くの水を流すことができる。大雨が降っても、大量に水を流せるから、溢れて洪水になることはない。ところがこれも問題があるんです。川底を掘ると、今度は海水が逆流して流れ込んでくる。そうすると、川に流れ込んだ海水が堤防の外にしみ出して、田畑に塩害を引き起こす」

「そこで河口堰が登場するんです。ここに堰を作って、海水が上がってこないようにするのです。すると塩害の心配もない。しかも河口堰で川の水をせき止めることで、工業用水も家庭用水も不足の心配をしないですむのです。洪水はなくなる、塩害もなくなる、人口増加と工業発展に伴う水不足も解消する。一石二鳥どころか一石三鳥です」

土留に聞く栗田。「河口堰は田畑の塩害を防ぐために必要だと仰いました。それでは塩害の心配がなければ、河口堰を作る必要はないわけですね。もし、洪水のことを考えるのなら、川底を浚渫すれば済むんだし。河口堰は完成してないから、今も海水は川に流れ込んでいるんでしょう。その塩害による被害はどのくらいになるんですか」「今、ちょっと資料がないので」

私が答えると言う沢井。「確かに伊勢湾台風に襲われた時に、破れた堤防から侵入してきた海水のために、それからしばらくは塩害に苦しみましたが、1977年に農業用水を木曽川用水に変えてから、塩害は急速に減りました。長良川全域で塩害が起こっているのは、一番下流の長嶋町で、作付け面積の0.3%です」「え。一番下流の長嶋町でさえ、そんなわずかなものなの」「ぬう。塩害はある。それに水の問題もある。工業用水と家庭用の水を確保するために、河口堰は必要なんだ」

そうなんだと呟く山岡。「元々、長良川河口堰の計画は水の確保と言う目的から始まったんだ。河口堰の建設母体は建設省と水資源開発公団だ。事の始まりから目的は水だったんだ。治水とか塩害とか言うのは、後で付け加えた誤魔化しだよ。この長良川の河口堰問題は実に単純なものなんだ」

「1960年代、日本は経済的に大発展を始め、工業用水と家庭用水を確保することは緊急課題となった。だから1961年に水資源開発促進法と水資源開発公団法を制定した。そして、1965年、木曽川水系水資源開発基本計画が策定された。この長良川河口堰の建設もその基本計画に入っている。だから長良川河口堰は最初から水資源確保を狙ったものであることがはっきりする」

「それにどうして塩害とか治水とかを付け加えたか。それは水が余って、これ以上必要なくまったからだ。木曽川水系が水を供給する三重、愛知、岐阜の情況を見ると、工業用水、家庭用水を合わせて、一日の使用量は1975年に606万トンを記録したが、今のところ560万トン前後に収まっている」

「各企業が水の無駄遣いを避ける工夫をしたのが、工業用水の使用量を減少に導いた。人口も今の出生率をからすると減少傾向にあり、どう見ても水の使用量が増える可能性はない。ところが木曽川水系に建設されたダムの水量を合わせると、一日に831万トン。それに徳山ダムと河口堰の水を加えると、一日当たり1125万トンになる」

「全部完成したら、必要な量の二倍近くの水が手に入ることになる。だったら長良川河口堰を作る必要はないと普通の人間は考える。でも日本の官庁のお役人はちがう。彼等は合理的な理性で動かない。彼等を動かすのは前例と慣習とメンツと利権だ。明らかに現状にそぐわなくても、いったん決めた計画を実行しないのは、慣習に反するから前例にない。前例にないことはしてはならない」

「それにどの公団でもお偉方はどこかの官庁からの天下りと相場は決まっている。高級官僚にとっては大切な利権だ。ところが河口堰が必要ないとなると、公団と建設省の仕事が減って、旨味がなくなる。だから河口堰の建設を強行したい。しかし、いくらなんでも何か理由がないと、国から予算が出ない。それで治水とか塩害とかもっともらしいことを言い始めた」

「だから、これは単純な話だと言った。洪水とか安全性とか塩害とか、そんなことは長良川の河口堰とは関係ない。官僚たちのメンツと利権、土建業者と政治家たちの利権、そんなものが癒着して醜い姿をさらしているのが、あそこに見える河口堰の正体なんだ」

「江戸時代、木曽三川の治水工事を幕府に命ぜられた薩摩藩は、大勢の藩士の命を失い、巨額の費用のために藩の財政を危うくし、やっとのことで成し遂げた。その薩摩藩士の偉業は、宝暦の治水として、未だに感謝と尊敬の念を込めて語り継がれている。しかし、この河口堰の建設を強行されて、この醜悪な姿を残したら、後世の人たちは、軽蔑と怒りを込めて、建設に携わった人たちのことを語るだろう」

「ほら、まだ葦の繁った洲が残っている。鮎子さん、あれはとても大事なものでしょう」「そうよ。あれは葦山と言って川に棲む生物たちにとって、とても大事なの。魚も鳥も昆虫もあそこで卵を産み、子育てをし、隠れ家にする。葦山がなくなったら、長良川の生物の種も数も激減する。現に工事が始まって以来、広い範囲の葦山が潰されてしまった」

「河口堰自体が環境を破壊するけど、それ以前に長良川の生態系に打撃を与えてしまっているの。この工事の始まる前は白魚は取れたけど、今はほとんど姿を見なくなってしまったわ。建設省のお役人には、ブルドーザーで潰してしまえばいい無価値な葦山かもしれないけど、長良川の生物にとっては、かけがえのない家なのよ」

ぬうと怒鳴る土留。「さっきから黙って聞いていれば、何をバカなことを言ってるんだ。河口堰が生物に悪影響を与えることはない。ちゃんと考えてある。河口堰の両側には魚は川を上っていけるように、魚道まで作ってあるんだ。岐阜大学の先生の実験では、ちゃんと70%の魚が上って来ることが証明されているんだ」「バカなことを言わないで。河口堰が無ければ100%戻って来るんだから、魚道がどうのこうの言う必要もないわ」「ぬうう」

「それに鮎などの魚には不完全ながらも、魚道と言う逃げ道があるが、しじみの場合は絶望だ。河口堰のおかけで海水が上がってこないと、汽水環境がなくなる。真水ではしじみは繁殖できないんだ」「そうか。鮎子さんが長良川が死んでしまうと言ったのは本当だったな」「しじみも鮎も白魚も何もかも、この河口堰のおかげで消えてしまうじゃないか」「魚も貝も死んでしまったら、その川はまさに死んだ川だよ」

ぬううと怒鳴る土留。「何を感傷的なことを言ってるんだ。鮎がどうした。しじみがどうした。鮎なんかいくらでも人工養殖できるだろ。しじみが食いたきゃ、韓国や中国から輸入すればいい。そんなことより国家百年の計画が大事だろ。川の治水、水資源の確保は何より大事だ」

「おやおや、しらけますなあ」「本当にねえ。鮎もしじみもいない国にするのが百年の計ですか」「我々の子供に死んだ川を残すのが、百年の計だって言うのかい」「いい加減にしろよ」「ぬううう。おのれ、このバカどもめが。勝手にほざいてろ。どんなに騒いで、お上に逆らっても無駄だぞ。河口堰は作り上げる」

嘆く鮎子と沢井。「私たちが結婚できないでいるのは河口堰のせいなんです。長良川が死んでしまったら、虎男さんもあのお店を続けられません」「自分の商売の行く先もはっきりしないようじゃ、嫁に来てくれとは言えません。あの河口堰をなんとか建設中止に持っていくまで、私たちは結婚どころじゃないんです」

天然遡上の鮎を毎年食べたいと言う山岡。「そのために、河口堰を何とかしなくては」「我々、釣友会としては、ただちに河口堰の建設を中止させるためにできる全てのことを行うことを決定したい」「異議なし」「これは長良川だけの問題じゃないわ。日本中の人全てに関わって来る問題よ。できるだけ多くの人に知ってもらわないと」