作:雁屋哲 画:花咲アキラ「美味しんぼ(283)」 | ロロモ文庫

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鍋対決!(5)

五大鍋を出す海原。「その一、スッポン鍋」「その二、フグチリ」「その三、アワビのしゃぶしゃぶ」「その四、ハモとマツタケの鍋」「その五、カニ鍋」

五大鍋のあまりの旨さに絶句する一同。審査を始める前に申し上げたいことがあると言う海原。「本日お出しした五大鍋の一つ、アワビのしゃぶしゃぶは究極のメニュー担当者が確立した調理法によるものです」「え」「2人は岡星という料理人にそれを教えた。その岡星の弟は、私の下で美食倶楽部の調理人として働いている。その男が私に作って食べさせたのだ」

「またハモとマツタケの鍋とカニ鍋を完成させた「京味」の主人、西氏の話によると、ハモとマツタケの鍋は西さんから2人はじっくり教えを受け、カニ鍋は西さんが教授しようとしたところ、2人は断ったと言う。と言うことは、究極側はその気になれは、至高の五大鍋と同じものを出せたことになる。それを出さなかったのは、この二人が二つの考えで、自分を縛ってしまったからだ」

「一つは鍋料理は郷土、家庭により、人々が強い愛着を抱いているものがあるから、究極の鍋はこれだと押し付けると感情を害する。そのためにも、誰にでも応用可能で受け入れやすいものを作らねばならぬと言う考え方。もう一つは辺貫先生のもてなしの心を誤解して、こだわりのなさどころか、大こだわりにこだわって、濁ったもてなしの心を抱いてしまったからだ」

「西さんが折角教えようとしたカニ鍋を二人が断った上、スッポンもフグに使わない気だと聞いて、私は二人がとんでもない思い違いしているに気づいた。で、私は安心して五大鍋を出すことができたのだ」

「まず究極側は鍋料理の本質を心得違いしている。鍋料理は一緒に食べる人同士がくつろぎ、心を通じ合い、親しくなれるための料理だと言う。しかし、それは何も鍋料理に限ったことではない。バーベキューでも花見の宴会でも、一本の焼き芋を分け合っても、心はなごみ、楽しくなる。大体人の心が通い合うのに必要なのは、鍋料理がいいか、バーベキューがいいかなどと言う技術論ではない。それこそ、もてなしの心なのだ。辺貫先生、いかがでしょう。この二人の鍋料理に表れたもてなしの心は?」

「ま、簡単に言えば、私は海原さんの料理が好きだな。山岡君たちの料理よりずっと素直じゃよ」「あんな高価な材料を使った鍋の方が」「素人には調理できないような鍋料理が」「お二人の気持ちはわかるが、仏心の前ではマツタケもシイタケも松葉ガニも豚のひき肉も同じじゃよ。高い安いと言うのは市場の原理じゃろ。仏の目には皆同じ」「……」

「お二人はもてなす心と、相手に気に入られようと媚びを売る気持ちとを取り違えたのではないかな。あれもこれを取りそろえ、誰の趣味にも合うようにできているが、もてなされる方はうんざりする。一方、海原さんの料理は単純明快。これ以上の物がない、美味しい鍋料理を食べさせてやりたい。その心が漲っている。カニはこうして食べるのが一番旨いと言う信念が溢れている。我々はその海原さんの世界を見せられて、さあどうぞと招かれる。そこには一切の媚びがない。自分の裸の心まで広々開いて、そこに招いてくれる。それが真のもてなしだ」

反省する山岡と栗田。「そう言えば、辺貫老が岡星さんの店に飛びこんだのも最高の水を求めてのこと。辺貫老のもてなしの際のお茶も辺貫老の手に入る最高の物だった。我々も手に入る最高の物を素直に求めればよかった。どうせ究極などと言っているのだから」「質素なものをとこだわりすぎて、材料の値段に心を奪われすぎた。材料が高価であることを自慢するのと結局同じ。物の値段に心をとらわれて、素直なもてなしができなったのだわ」

語る海原。「さらに鍋料理の本質は何か考えるがいい。本質の一、フグはチリにするのが一番旨いからチリにする。スッポンもアワビもカニもハモもマツタケも鍋にするのは一番旨いと言う必然性があるからだ。本質の二、鍋は食卓で調理するところに最大の意味がある。調理する場所と食べる場所に距離がない。それは何を意味するか。熱だ。料理がごく熱いうちに食べることができる。熱いまま食べることの旨さを理解してこその鍋料理なのだ。以上、二つの本質を追求してこそ、究極とか至高の鍋料理と言える」

「私は郷土の鍋や自家伝来の鍋に愛着を抱く者にも不快にしない鍋料理を出すと約束した。至高の五大鍋を見て、不愉快になる人間がいると思うか。この五大鍋は良寛さんの残した最高の書のようなものだ。書の愛好家は良寛さんの書を見て、自分はお呼びもつかぬと思うが、不快にならない。この五大鍋を記事で読んだ人は、いつか食べたいと憧れこそすれ、不快に思う人は誰もいない。一方、究極の鍋はあまりに身近すぎるため、読者はこんなものならうちの鍋の方が、と思いやすい。そっちの狙いは裏目に出たのだ」

「審査の結果を申し上げます。究極側のなんでも鍋、考え方は面白かったのですが、高々とそびえたつ至高の五大鍋の前では、砂場に子供が作った砂山のように見えます。思想的にも鍋料理の本質を踏まえた点を取っても、今回は文句なしに至高側の勝ちとします」山岡に悪いことをしたと反省する京極。「わしが余計なことをしたばかりに」

呟く栗田。「最初から最後まで、海原雄山の掌の上で踊らされたみたい。最初に鍋料理のことをあんなに言われなければ、私だって素直にあの五大鍋くらい出せたわよ」「でも負けは負けだ。完敗だよ」「負けね。あ」団との約束を思い出す栗田。「ああ」「どうした」「なんでもないの。さあ、元気出して、何か食べましょう」