傷つかなくなることについて(富井ver)
一瞬だけ実家に寄ったので、友達に会ってきゃいきゃいして
パスタを食べデザートを食べコーヒーを飲み
シアワセ全開になってきた。
こんなに一日笑顔で、しゃべって、美味しいもの食べて、
そーゆうのなかったなぁここんところ。
普段生活していたって何かを想ったり思い出したりすること多いけど、
この出来事はこうだったー、この時こう思ったー、
こういう意味があると思ったー、となんだかんだとクチにして吐き出すことは少ない。
こうして友達と話しているのも、生活の中でとても大事なんだなぁと。
まともな人間になりたい、そしてそのまともという定義をどうするかを、
私は友達と話しながら模索しているような気がする。
(話し相手の親友はそんなつもりないと思うけどw)
数多く出会っては別れてきた不完全な人たちと、その時そこにいた不完全な私。
未消化のまま打ち捨ててきた人間関係。
曖昧に終わらせてきた、続けてきた出来事その全てを
なんとか自分なりに理由をつけて、納得して、消化したいんだろう。
それは毎日ごはん食べて寝て起きてだけでは
決して消化されずにずっと居座り続けて、
どこかで排出されるのを待ってる気がする。文字とか、言葉とかで。
「だから私はこう行動するんだよ」、「私はこう決めているんだよ」、と
思えるように、その全ての未消化なものを消してしまいたい。
排出されたら消えるのかといえばそういうわけではないのだけど、
次の何かを踏み出せる気がしちゃう。
親友の結婚式で読んだスピーチの内容を、
手紙にしてあったのでそれをもう一度読み直してみたんだけど
なんだか胸にきました。
出会った頃はあのだっさい制服を着ててねぇ。
畑に囲まれた田舎のだだっぴろい高校の、
夕方陽が落ちてきたあの時間に、
狭くて油くさい美術室にキャンパスを立てて、
絵の具を塗りながら他愛もない話をしていた日々。
そのときの私たちにとっては真剣な話をしていたかもしれない。
そういえばあの頃はなんか傷口むき出しにして
人ごみを歩いてるような、
ぶつかったらテメェこの野郎って普通に切れちゃうみたいな(比喩です・笑)
そんな日々だったなぁ。
すぐに話したり笑ったり怒ったり泣いたり泣かせたり(?)して、
ドラマチックな日常だった。そのくせ漠然と不安で。息苦しくて。
いつからか、たいていのことをされたり言われたりしても
感情に振り回されることが少なくなった。
押さえ込むようになったのか、本当に傷つかなくなったのか・・・
その代わりどこかで辻褄を合わせるように、
こうして誰かと話したくなるんだろうか。
こうして文字にしたくなるんだろうか。
誰かと一緒にいたくなるんだろうか。
旦那とは割りと会話しているほうだけれど、
こうして友達としゃべっていると普段私こうゆうこと全然しゃべってなかったな・・・
しゃべりたかったんだな・・・・と再発見するわけ。
旦那だけいればいいなんてそんなわけないYO。
彼氏だけ作って友達裏切ったりしていると年取ってみじめになるぜ・・・マジで
話したい相手と話すことだよ。
今の自分がちゃんと話したいひとと、話すことだ。
うーん、清春さんへの愛を、ブログに書いたり
友達と話したりするとものすごく愛が深まったり気持ちが高まったりするじゃない?
でも黙って暮らしているだけだと、どこかで溜まって腐って、
忘れて、捨てて行ってしまう。
誰かと会い、話をすることの大切さというか・・・
そんなこと、分かってるつもりだったけど・・・
そうして今、愛すべき退屈な日々。
なんてことない日常もまた必要でございます。
「女のいない男たち」 読了!
村上春樹の新刊が出た!しかも「東京奇譚集」からもう9年ぶりの短編集。
春樹の短編集はどれも結構好きな私。
色んな短編があるけど、ある短編はファンタジー(←たいていは何かのメタファー)だったり、
ホラー(←これもたいていは何かの以下略)だったり、
恋愛小説(あまりにも哀しすぎる場合がほとんどだけど)だったり、
そのすべてだったりする。なんてゆうか、お得。
近年の長編小説も好きだけれど、
ハルキムラカミ氏の短編集はちょっと特別に好きかもしれない。
+++
そんで、新刊を買ったというお姉さんから、いずれ借りようと思っていたものの
待ちきれなくなって買っちゃったんだよね。
「女のいない男たち」。題名そのものずばり。
大学時代には散々春樹について講義や友達やネットで議論しつくしてきた
(・・・とハルキストは皆言う・笑)私だけど、
「女のいない男たち」というのは村上春樹の小説の中で
もっとも根源的な要素なわけですよ。
ハルキストの皆さんは「えぇ~!今になってこの題名~!」と思われているに違いない(笑)。
彼の小説の中の男性主人公(または男性登場人物のほとんど)は
彼女や妻を亡くしていたり、または失踪していたり、または失いそうになっている
という状況にあって、その状況の中で自分の世界も不安定になっていくというのが
ザ・村上春樹な設定なわけですが。
そしてこの短編集も、間違いなくそういった男性たちを主人公としている。
しかも残念ながら(?)、それを取り戻そうとして躍起になってついでに世界も救っちゃうみたいな ラノベ展開にはなりません(笑)。
そしてきっと春樹の読者は、そうなるということを期待しては読んでない。
世の中にはそういった自己啓発的な・・・理想化された物語というのは
消費するより追いつかないぐらいたくさん世の中に溢れてて、
たいていは、あえて村上春樹を選択しないと思うんだよね。
春樹を読むことは、目的が物語を消費するというひとつに限らなくて。
近年1989がものすごく売れたのもあって、春樹を読む人増えたと思うけど
やっぱり読む人を選ぶ小説だと思う。どっぷりはまるか、なんだこれで終わるか。
脱線した。つまり取り戻そうとして躍起にはならず、あきらめたり納得したり、
その一方で心のバランスを崩したり、危険な目にあうというのが
たいていの春樹小説の主人公なわけです。
なので、バリバリ現実味しかない小説かというとそうではなく、
ちょっとオカルトっぽかったり不思議な出来事ももちろん起こる。
でも、この世界になら起こりえるんじゃないかと思わせるところが最高にかっこいい!
村上春樹ワールド全開。
何かの比喩表現としての蛇、猫、柳の木・・・というコンテンツが、
たとえば自分の世界にある事象(ひらひら舞うカーテンとか、ずっとすれ違い続ける会話とか、
ドアノックの空耳とか、そういう他愛のないもの)に取って代われるんじゃないかと、
この世界は自分にもありえるんじゃないかと、
ふと心から薄ら寒くなるような、そういう感覚に陥る。
すばらしいです春樹様!!!
「おれは傷つくべきときに傷つかなかったんだ、と木野は認めた。
本物の傷みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。
痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し
その結果こうして中身のないうつろな心を抱き続けることになった。
蛇たちはその場を手に入れ、冷ややかに脈打つそれらの心臓をそこに隠そうとしている。」
なんか今になって原点回帰してるんじゃないかぐらい、
春樹要素のぎゅ~~~っと詰まった短編集だった。
+++
あと女はみんな浮気しすぎだし、行動が意味不明すぎて
きっと春樹(や世の中の男性)は女性って謎だなぁと思ってるんだろうなと・・・w
いやあの、人によると思いますけど・・・w
(※物語消費論については 大塚 英志氏の「物語消費論」を是非) 。
春樹の短編集はどれも結構好きな私。
色んな短編があるけど、ある短編はファンタジー(←たいていは何かのメタファー)だったり、
ホラー(←これもたいていは何かの以下略)だったり、
恋愛小説(あまりにも哀しすぎる場合がほとんどだけど)だったり、
そのすべてだったりする。なんてゆうか、お得。
近年の長編小説も好きだけれど、
ハルキムラカミ氏の短編集はちょっと特別に好きかもしれない。
+++
そんで、新刊を買ったというお姉さんから、いずれ借りようと思っていたものの
待ちきれなくなって買っちゃったんだよね。
「女のいない男たち」。題名そのものずばり。
大学時代には散々春樹について講義や友達やネットで議論しつくしてきた
(・・・とハルキストは皆言う・笑)私だけど、
「女のいない男たち」というのは村上春樹の小説の中で
もっとも根源的な要素なわけですよ。
ハルキストの皆さんは「えぇ~!今になってこの題名~!」と思われているに違いない(笑)。
彼の小説の中の男性主人公(または男性登場人物のほとんど)は
彼女や妻を亡くしていたり、または失踪していたり、または失いそうになっている
という状況にあって、その状況の中で自分の世界も不安定になっていくというのが
ザ・村上春樹な設定なわけですが。
そしてこの短編集も、間違いなくそういった男性たちを主人公としている。
しかも残念ながら(?)、それを取り戻そうとして躍起になってついでに世界も救っちゃうみたいな ラノベ展開にはなりません(笑)。
そしてきっと春樹の読者は、そうなるということを期待しては読んでない。
世の中にはそういった自己啓発的な・・・理想化された物語というのは
消費するより追いつかないぐらいたくさん世の中に溢れてて、
たいていは、あえて村上春樹を選択しないと思うんだよね。
春樹を読むことは、目的が物語を消費するというひとつに限らなくて。
近年1989がものすごく売れたのもあって、春樹を読む人増えたと思うけど
やっぱり読む人を選ぶ小説だと思う。どっぷりはまるか、なんだこれで終わるか。
脱線した。つまり取り戻そうとして躍起にはならず、あきらめたり納得したり、
その一方で心のバランスを崩したり、危険な目にあうというのが
たいていの春樹小説の主人公なわけです。
なので、バリバリ現実味しかない小説かというとそうではなく、
ちょっとオカルトっぽかったり不思議な出来事ももちろん起こる。
でも、この世界になら起こりえるんじゃないかと思わせるところが最高にかっこいい!
村上春樹ワールド全開。
何かの比喩表現としての蛇、猫、柳の木・・・というコンテンツが、
たとえば自分の世界にある事象(ひらひら舞うカーテンとか、ずっとすれ違い続ける会話とか、
ドアノックの空耳とか、そういう他愛のないもの)に取って代われるんじゃないかと、
この世界は自分にもありえるんじゃないかと、
ふと心から薄ら寒くなるような、そういう感覚に陥る。
すばらしいです春樹様!!!
「おれは傷つくべきときに傷つかなかったんだ、と木野は認めた。
本物の傷みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。
痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し
その結果こうして中身のないうつろな心を抱き続けることになった。
蛇たちはその場を手に入れ、冷ややかに脈打つそれらの心臓をそこに隠そうとしている。」
なんか今になって原点回帰してるんじゃないかぐらい、
春樹要素のぎゅ~~~っと詰まった短編集だった。
+++
あと女はみんな浮気しすぎだし、行動が意味不明すぎて
きっと春樹(や世の中の男性)は女性って謎だなぁと思ってるんだろうなと・・・w
いやあの、人によると思いますけど・・・w
(※物語消費論については 大塚 英志氏の「物語消費論」を是非) 。