1月17日、NHKBSで英雄たちの選択「この世をばわが世とぞ...? 〜藤原道長 平安最強の権力者の実像〜」が放送されてました。今の大河ドラマ「光る君へ」の参考になるかと思いみました。
「三人の娘を三代の天皇にわたって后(きさき)として送りこみ絶大な権力を握った平安貴族、藤原道長。
「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」と、自らの権勢を「満月」に重ね合わせて詠んだ歌で有名だ。
自筆日記からは意外な実像が…それは、権力欲に駆られた強引な男というイメージからはかけ離れた、繊細で心配り上手なリーダーとしての姿だった。藤原道長の知られざる実像と権力掌握の秘密に迫る」とあります。
以下、文章は、ksagiさんのブログを参考にさせてもらっています。
「道長の登場した時代は藤原氏の中での権力争いが激しかった。道長の父兼家権力争いに負けた側で、権力からは遠かったという。
(詮子(せんし)が円融天皇の皇子の懐仁親王(後の一条天皇)を出産)
しかし兼家の娘の詮子が円融天皇の皇子の懐仁親王(後の一条天皇)を出産したことで状況が変わる。
兼家は一気に右大臣にまで昇進する。
そして一条天皇が幼くして即位すると後見になった詮子によって兼家は摂政に弟の道長も公卿に昇進する。
しかし父兼家がこの世を去り、藤原家では権力争いが始まる。道長の兄で兼家の長男の道隆が
娘の定子(ていし)を一条天皇の中宮として外戚となる。道長は姉の詮子(せんし)の引き立てで中宮大夫という後宮の事務などを扱う職に就く。
道隆は息子の伊周(これちか)を後継者として内大臣に抜擢して翌年995年にこの世を去る。
この年、疫病の流行で朝廷内でも多くが亡くなり、朝廷を仕切れるのは道長と伊周だけになる。この時に詮子が一条天皇に道長を強く推薦し、天皇は道長を内覧という関白と同等の地位に当たる重職に任命する。しかしこれに不満を感じた伊周と道長は対立することになる。
しかし996年、伊周が花山法皇従者二名を殺害する乱闘事件を起こしてしまって墓穴を掘る。
伊周は太宰府に左遷され、その間に道長は娘の彰子を一条天皇に入内させる勝負に出る。
(道長は、彰子(しょうし)を一条天皇の后へ)
一条天皇には既に伊周の妹である定子という后がおり、二人の仲も良好であったという。当時は天皇が二人の后を持つことは前例がないが、道長は定子が一度出家したことがあることを取り上げ、仏門に入った后では神事を執り行えないと彰子の入内を公卿達に納得させる。
(彰子(しょうし)と一条天皇の子敦成親王(後の後一条天皇)生まれる)
しかし1011年、道長に問題が持ち上がる。一条天皇の後を継いだ三条天皇との対立だった。三条天皇は道長の甥に当たったが、若くして権力を握った道長に対し、三条天皇は25年もの年月を皇太子のまま過ごすなど日の当たらない生活を送っていた。このことから三条天皇はことあるごととに道長を敵視した。独裁的に振る舞う三条天皇は公卿達を混乱させることになる。
(道長は娘の妍子(けんし)を三条天皇は娍子(せいし)を)
道長は娘の妍子を三条天皇に入内させるが、三条天皇は娍子を二人目の后に立ててこれを拒む。
ここで道長の選択であるが、三条天皇に退位を迫るか状況を見るかである。三条天皇は目が悪く、片方の耳もあまり聞こえない状態であり、それでは天皇の仕事を全う出来ないと訴えることは可能であったが、他の公卿達が反発するのではというのが懸念事項である。番組ゲストは全員が「退位を迫る」であったが、実際に道長も退位を迫ることになる。
(三条天皇は、娍子の子である敦明親王を皇太子にることを条件)
退位を迫られた三条天皇は、娍子の子である敦明親王を皇太子にすることを条件に退位を呑む。道長はその条件を呑む。
そして次の天皇に道長の外孫に当たる後一条天皇が即位する。しかし三条天皇がその翌年に崩御、後ろ盾を失った敦明親王は自ら皇太子の地位を去る。
そこで道長は三女の威子を後一条天皇に入内させて中宮とする。
こうして天皇家との関係をより盤石のものとする。
天皇3代の皇后をすべて自分の娘にしたのです(一家三后)。
(彰子(しょうし)と一条天皇)、(妍子(けんし)と三条天皇)、威子(いし)と後一条天皇)
(望月の歌)
この時に威子の祝いの席で道長が詠んだとされるのが先の望月の歌という。
ただこの歌が記されているのは藤原実資の日記だけであると言う。実資は道長と長年ライバル関係にあったとのことなので、何らかの意図が含まれている可能性もあるという。道長の子孫の近衛氏は「こんな畏れ多いことを詠んだとは思えない」と考えるし、ゲストの一人は「二次会辺りでヘベレケになったところで、思わず本音がボロっと出たのでは」とのことである。しかしこれが残ったことで貴族は悪いとなって、武士の世を正当化することにつながった大きな歌でもあるとしている。」とあります。
望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の意味は、「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている」。道長としては、自慢する歌で後世に残したくなく、自分の日記には、記載していない。道長のことをあんまり良く思っていなかった実資が、嫌がらせの意味でバッチリ記録していた。のではないかという説もあるようです。
追加ですが、一条天皇の后が二人いて彰子の家庭教師が紫式部でもう一人の后定子の家庭教師が清少納言でライバルであったようです。
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