■映画『シン・ゴジラ』2016日本
休日に出かけたついでに、評判の庵野秀明監督『シン・ゴジラ』を観る。
いや、監督は樋口慎司で庵野秀明は総監督・脚本かぁ…
この映画の内容や設定については賛否両論あるのだろうが、個人的には前半と後半の脚本の出来に差があるのが気になった。
前半の脚本は色々な意味で面白い。
半ば不磨の大典と化した『ゴジラ』というコンテンツを、解体し再構成している様。
根回しや煩雑な手続きを通さないと機能しなくなっている日本社会に対する風刺。
そして実際にゴジラに対する攻撃をなかなか始められなくて、攻撃が始まったらあっという間に弾切れになる自衛隊の矛盾。
米軍のバンカーバスターの攻撃受けたゴジラが放射線を吐き東京を火の海にするシーンで、僕らはこれまで60年来のゴジラ像を捨てる覚悟と同時に、あぁこれこそがゴジラ映画なのだという矛盾した感情を抱かされる。
ここまではとてつもなく面白い。
しかし、そこから先は退屈だ。
究極の破壊のカタルシスの先にあるのは、へたくそな青春ドラマの様な青臭い外交ドラマだ。
おいおい、そりゃないんじゃないか。
今回の『シン・ゴジラ』は災害時の危機対応を軸にドラマが作られているから、作劇上はそういう展開は素直なのだが…
素直すぎて退屈だ。
映画の前半で、「想定外」の事態の発生と、それを想定していなかったオヤジ達の間抜け面を散々描いてたくせに…後半は想定通りの作劇に終始するのはどうしても解せぬ。
怪獣映画の視聴者はそれこそ「想定外」の展開を想定し、期待しているのだ。
おそらく庵野秀明自身、その展開が退屈なのはわかっていて、仕方ないから、新幹線や国電でゴジラを攻撃したり、高圧コンクリートポンプ車とかを出してオタク受けする変な想定外の画を作ってる。
しかし、それではダメなのだ。
観ているこちらは『機関車トーマス』とかを思い浮かべて白ける限りなのである。
元々、庵野秀明も樋口真司も、画作りは抜群に上手いが、作劇は出来ないと言われている映像クリエイター達だ。
その弱さがこの映画の後半に出たと言っていい。
ゴジラの出現から東京を火の海にするまでは、これまで何十回と繰り返された前例に則って作劇をすればいい。
しかし、新たに『シン』を冠した『ゴジラ』を作るためには、アドホックな「危機管理」をテーマにした安直なストーリーではなく、もっと大局的なバックボーンを持ったメッセージが必要だったのではなかろうか。
また床屋へ
また床屋へ行く。
3カ月ぶり。
例によって、刈上げ短めのお願いをして、目をつぶる。
やがて髪の毛が終わって、顔剃りが始まる。
まずはうなじ。
そして、うなじの後は額だ。
あっ、おい!?
そこはおでこではなくて、髪の毛が生えるとこだろう。
こら、そこは産毛じゃなくて髪の毛だ。
剃っちゃダメだ。
やめろ。
ダメなんだってば…
オリンピックの憂鬱
いろいろと課題のリオオリンピックが始まった。
僕は他人の運動にはあまり興味がないので、オリンピックのシーズンは少し憂鬱だ。
オリンピック関係の情報が世の中に溢れる。
家人のテンションは上がり、四六時中テレビでオリンピックの番組を観る。
それでは物足りないのか、いつの間にかレコーダーの予約が埋まり、レコーダーのハードディスクの中はオリンピックの番組だらけになる。
オリンピックに関係なく、静かな日常生活を送りたいのだが、なかなかそうも行かない…
今日も家のTVでは延々と開会式がリアルタイムで流されている。
昔は各国の選手団が整列し足並みを揃えて入場行進をしていたのだが、今は整列せずに手を振りながらダラッと入場する。もはや行進とは呼べない。
時代の趨勢なのだろう。
甲子園の高校野球はきちんと整列しているので、オリンピックが自由すぎるのか、甲子園が古すぎるのか。ここら辺、国体とかはどうなのだろう…
各国の選手団先頭には、東映動画のプリキュア辺りをもっと盛った様な自転車をナイスバディのお姉さんが漕いだりしてる。
かなりバカっぽい。
行進も自転車もゆるゆるだ。
大人がTVで観てあまり面白いものではないと思うのだが、それなりに視聴する人がいるのだろう。
これは、ヤバい政治的な諸々から目を逸らし、大衆に夢を観させておく為のお祭りなのだろうなぁ…などとひねくれたオヤジはそんな事を頭の中で考える。
それならば、この行進がゆるくなくなった場合は、世界情勢は微妙な事になるのだろうか…