■書評 藤本隆宏『現場主義の競争戦略 時代への日本産業論』 新潮新書2013/12/20
- 現場主義の競争戦略: 次代への日本産業論 (新潮新書)/新潮社

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東大大学院の教授で自動車産業の競争戦略やモノづくり力、能力構築競争etcの研究で有名な藤本隆宏氏の講演をまとめた本。
最近、安易に講演や口述筆記、インタビューをまとめた新書が多くて、その内容が整理されて無くて辟易するのだが、この本は比較的良くまとまっている。
もちろん、最初から文章として書かれたモノに比べると、論の展開が寄り道をしていたり、説明が弱いと感じる部分が有るのだが、話者の伝えたい内容は良く判る。
元の講演の質がかなり高いのだろう。
内容的には、「本社」と「現場」という2つに分けて、その対比で会社の特徴を語るという視点が、今の日本の製造業の課題を的確に表現していて面白かったし、為になった。
藤本隆宏氏の著作でも、過去から「本社」と「現場」という内容には触れられていたが、それをテーマとして書かれたモノは初めてだろう。
製造業に関わる技術者や本社スタッフは、この正月休みの間に是非とも読んでおくべき一冊だと思う。
満員電車の乗り方
年の瀬も押し迫ったある日の朝、通勤時間帯に僕が使っている路線で電車事故が発生した。
電車は上下線とも不通になり、ホームに人が溢れる。
小一時間程して電車の運転は再開したが、やってくる電車は満員で、全員が乗れる訳ではない…
30年程前を思いだした。
僕は当時の東京も大阪も知っている。
凄い通勤ラッシュだった。
狭い空間の中で人が絡み合い、鞄は人と人の隙間に押しつけられ、手を離しても落ちる事がなかった。
東京の現状は知らないが、関西圏は、この20年くらいの間に通勤する人が減ったのだろう。
かつての様なギュウギュウ詰めの電車に遭うことは久しくなかった。
しかし、そんな電車が今目の前にある。
開いた電車の扉の前で、30代前半の小太りの女性が中に入ろうとして奮戦し、あきらめて隣の扉に走っていく。
日本人は満員電車への乗り方も忘れてしまったみたいだ。
ただ押してもダメだ。
50過ぎのオヤジは、女性が諦めた扉に近づき、開いた戸の上に手をかけ、目を付けた人と人の間にグィと身体を押し込む。
扉が閉まり、電車が走り出した。
そのまま車体の入り口に留まってはいけない。
そこは一番人体密度/圧力が高い場所だ。
人と人の隙間に、体を横にして微妙に圧力を加えて内部に浸透していく。
扉付近とは違い、内部には意外と隙間がある。
足の踏み場と鞄の位置に気をつける。
そして背中向きに相手の脚の間に自分の脚を入れ、電車の振動・加速・減速に合わせて、スローモーションのダンスの様に、相手と身体性を共有しながら身体の位置を入れ替えて行く。
『荒天の武学』の中で内田樹が書いていた内容を思い出す。
試合の時に対峙する武芸者は、自分と他人という二元論に拘るとその状況に居着いてしまう。
相手と身体性を共有し、両者の身体をシンクロさせながら己の身体を、そして相手の身体を制御しなければならない。
満員電車の中でも、自分のポジションを守るため、人は往々にしてその場に居着いてしまっている。
そうした相手とダンスの様に相手と身体を入れ替えながら、もっと互いに楽な姿勢に誘導していく…オヤジは少しいい気になってくる。
駅に停車する度に、人が降り、そしてそれ以上の人が乗ってくる。
その都度、扉の方向からの人体の圧力は高まり、僕はその圧力の波に乗って更に車両の奥に移動する。
居着いてしまっている人の典型例として、吊革に居着いてしまった人がいる。
身体はとっくに奥に押されてしまっているのに、50cmくらい入り口に近い吊革を掴んで、斜めにぶら下がっている困った人。
本人は苦行の様な姿勢で苦しそう。
実際、電車が揺れる度に「うぅぅ…あぁぁ…」と苦しそうにうめく。
彼が掴む吊革の下に押されてきた若い女性は、頭上に彼の腕があって精神的に窮屈。
まるで親しい男性に上からのしかかられている様だ。
その男の向こう側は彼が圧力を引き受けている分、隙間があって天国。
本人に悪気はないのかもしれないが、かなり迷惑な状態。
生活の中で社会性が希薄になっている証左かしら…
電車の屋根にまで人が乗っているような発展途上国だったら、この男性は皆の非難を浴び、リンチにあってしまうだろう。
「その手を離されたらどうですか…」
声をかけようとして、躊躇う。
男の必死の形相は、そういう声をかけようとする意図を挫く。
仕方ないので、やんわりと実力行使。
あまり誉められた事ではないのだが…
彼に背中をつけて、身体を持ち上げる様に、彼の腕にも負担をかけるようにゆっくりと体重をかける。
握力の限界…彼は手を離す。
その途端、周りに張りつめていた圧力が緩和され、彼自身も含め一帯に幸福と弛緩が訪れる…
日本人は満員電車の乗り方を、本当に忘れてしまったのだなぁ…
電車は上下線とも不通になり、ホームに人が溢れる。
小一時間程して電車の運転は再開したが、やってくる電車は満員で、全員が乗れる訳ではない…
30年程前を思いだした。
僕は当時の東京も大阪も知っている。
凄い通勤ラッシュだった。
狭い空間の中で人が絡み合い、鞄は人と人の隙間に押しつけられ、手を離しても落ちる事がなかった。
東京の現状は知らないが、関西圏は、この20年くらいの間に通勤する人が減ったのだろう。
かつての様なギュウギュウ詰めの電車に遭うことは久しくなかった。
しかし、そんな電車が今目の前にある。
開いた電車の扉の前で、30代前半の小太りの女性が中に入ろうとして奮戦し、あきらめて隣の扉に走っていく。
日本人は満員電車への乗り方も忘れてしまったみたいだ。
ただ押してもダメだ。
50過ぎのオヤジは、女性が諦めた扉に近づき、開いた戸の上に手をかけ、目を付けた人と人の間にグィと身体を押し込む。
扉が閉まり、電車が走り出した。
そのまま車体の入り口に留まってはいけない。
そこは一番人体密度/圧力が高い場所だ。
人と人の隙間に、体を横にして微妙に圧力を加えて内部に浸透していく。
扉付近とは違い、内部には意外と隙間がある。
足の踏み場と鞄の位置に気をつける。
そして背中向きに相手の脚の間に自分の脚を入れ、電車の振動・加速・減速に合わせて、スローモーションのダンスの様に、相手と身体性を共有しながら身体の位置を入れ替えて行く。
『荒天の武学』の中で内田樹が書いていた内容を思い出す。
試合の時に対峙する武芸者は、自分と他人という二元論に拘るとその状況に居着いてしまう。
相手と身体性を共有し、両者の身体をシンクロさせながら己の身体を、そして相手の身体を制御しなければならない。
満員電車の中でも、自分のポジションを守るため、人は往々にしてその場に居着いてしまっている。
そうした相手とダンスの様に相手と身体を入れ替えながら、もっと互いに楽な姿勢に誘導していく…オヤジは少しいい気になってくる。
駅に停車する度に、人が降り、そしてそれ以上の人が乗ってくる。
その都度、扉の方向からの人体の圧力は高まり、僕はその圧力の波に乗って更に車両の奥に移動する。
居着いてしまっている人の典型例として、吊革に居着いてしまった人がいる。
身体はとっくに奥に押されてしまっているのに、50cmくらい入り口に近い吊革を掴んで、斜めにぶら下がっている困った人。
本人は苦行の様な姿勢で苦しそう。
実際、電車が揺れる度に「うぅぅ…あぁぁ…」と苦しそうにうめく。
彼が掴む吊革の下に押されてきた若い女性は、頭上に彼の腕があって精神的に窮屈。
まるで親しい男性に上からのしかかられている様だ。
その男の向こう側は彼が圧力を引き受けている分、隙間があって天国。
本人に悪気はないのかもしれないが、かなり迷惑な状態。
生活の中で社会性が希薄になっている証左かしら…
電車の屋根にまで人が乗っているような発展途上国だったら、この男性は皆の非難を浴び、リンチにあってしまうだろう。
「その手を離されたらどうですか…」
声をかけようとして、躊躇う。
男の必死の形相は、そういう声をかけようとする意図を挫く。
仕方ないので、やんわりと実力行使。
あまり誉められた事ではないのだが…
彼に背中をつけて、身体を持ち上げる様に、彼の腕にも負担をかけるようにゆっくりと体重をかける。
握力の限界…彼は手を離す。
その途端、周りに張りつめていた圧力が緩和され、彼自身も含め一帯に幸福と弛緩が訪れる…
日本人は満員電車の乗り方を、本当に忘れてしまったのだなぁ…
