旅の思い出に囲まれた私のアパート、まずはリビングルームからご案内
「このとき撮った写真を1986年に旅行社の写真コンテストに出したら入賞した。
これがきっかけで写真は病みつきになり、1986年、旅先で撮った写真をまとめてアパートの小さな車庫を利用して初めて写真展を開いた。
意外と好評だったので、それから二年毎に車庫で写真展を開いた。」
『幻の旅路』 第3章 1980年、第三回の旅 「ベニスで」P146より
新しい年が明けました。おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
Happy New Year!
いまから34年前(1977年)、いま住んでいるアパートに移ってきた時は、ピアノ一台と机代わりのミカン箱一箱しかありませんでした。
白壁が広がって、寒々しい感じがしたので、自分で撮った写真をもとに絵を描いて飾ることにしました。
1980年にベニスで写した写真をコンテストに出して、入選したのがきっかけで、写真を撮り始めました。
撮り始めたら止まらなくなって、部屋中写真だらけになってしまいました。
1986年、手先の器用な友人に頼んで、車一台分の車庫の壁に白板を張って、即席で展示会場を作ってもらいました。
そこに、いままで撮った旅の写真を飾って、写真展を開きました。
それから二年毎に、全部で4回開きましたが、とても人気があって、沢山の人が観にきて下さいました。
最後に写真展を開いたのは、2000年の8月。マラガコーブの図書館に付属した美術館です。
自分の家族がスイスの古城を持っていたというモルドおばさんに会ったのはこの時です。
いまは、写真を額に入れたり、会場に作品を運んだりする体力がないので、写真展は開いていません。
その代わり、私のアパートは旅先で撮った写真やお土産の小物で一杯です。
私は物質主義者ではありませんが、生きている間、少しでも楽しく暮らしたいと思っています。
それで、いつも旅の思い出に囲まれて暮らしています。
家具は結婚前に、アンティークストワーで中古の家具を購入しました。
ソファーや椅子は張り替え(upholstery)をしました。
いま壁に飾ってあるのは、私が旅先で撮った写真、私が描いた油絵、水彩画、クレパス画、母が描いた日本画、水彩画、それにスイスの画家、アルバート・アンカーの複製画などです。
今週は『Seko's Gallery』をご案内しましょう。まず、リビングルームからです。
00
美術大卒の甥が作ってくれたSEKO'S GALLERYのサイン。
I would like to show my Seko's Gallery.
These photos were taken in the living room.
昔は部屋中、鉢植えプラントがあって賑やかでしたが、二匹の猫がいたので置かないことにしました。
私はいまでもオリンパスDC35しか持っていません。
旅の写真はすべてこの小さな半自動のカメラで写しました。
最近はネガフィルムが手に入りにくいこと、現像所が限られていることなどが理由で、いまはこのカメラは殆ど使っていません。
今年のプロジェクトは今まで撮った写真のネガフィルムのスキャンをすることです。
これらの写真は娘のデジタルカメラを借りて写しました。
1
茶色の鉄のドアが錆びてきたのでアクリックで絵を描きました。
2
鉄ドア—ドライフラワーの花輪
3
茶色のドアをアクリックで絵を描きました。
『食べれる野草と料理法(新摘み草入門)』
福島誠一氏著(ふこく出版)の中の挿絵(笠原正夫氏、中野瑞枝氏)を参考にしました。
4
ドアの内側とスイスの写真
5
ドアの内側
6
入口のドア
7
入口のドアの下
8
リビングルームのスイスの窓飾り
9
リビングルーム 西北コーナー
10
リビングルーム 西北の壁の写真
11
リビングルーム 西北のコーナー 友人が作ってくれたステンドグラスのランプ
12
リビングルーム テレビのあるコーナー
油絵は北海道の大沼公園 週刊新潮の2頁のグラビア写真を参考にする。
(1975年制作)
その下のキャビネットはステレオの箱。
アクリックで花の絵を描く。
写真も油絵もすべて自己流。
特別に習っていない。
ソファーのクッションはドイツで買ったもの。
(第4章 1981年、第四回の旅
『フランクフルトの町で、スーツケース修理』P211参照)
コーヒーテーブルの上の陶器はフランス、ディーニュで買ったもの。
(第5章 1982年、第五回の旅 『ホテルの家族に会う』P362参照)
13
リビングルーム 右の写真2枚はアメリカ、マサチューセッツ州、ケープコッド(Cape Cod, Massachusetts)で撮ったもの。
1994年ボストンの友人を訪ねていったときに、彼女がケープコッドのグース池の湖畔にある彼女の友人の別荘(といっても質素な平屋建ての家)に連れて行ってくれる。
朝方、日が昇る前の一瞬をとらえた池と周囲の森の写真。
14
リビングルーム 南側 北海道、大沼公園の油絵
15
リビングルーム 食事をするテーブル
ロスアンジェルスのファーマーズマーケットでフランス製のテーブルクロスを4ー50ドル出して買って、普段用に使っている。
2010年に来たドミニクによると、フランスでは10ドルもしないで売っているとのこと。
しかも、フランス製ではないと言っていた。
来客用に数枚テーブルクロスを持っていて、ランチ用、デナー用、ティータイム用と時に応じて、取り替える。
このテーブルは、テーブルクロスを取ったら、その上でウインドーマットを切ったり、額のガラスを入れたり、作業用机にも使っている。
16
リビングルーム 庭に咲いているバラの花
17
リビングルーム 三面鏡
18
リビングルーム 猫のコーナー
19
リビングルーム アルバートとアンカーとうい猫の写真のコーナー
(第3章 1980年、第三回の旅
『ラ ロシェルでオーストラリア人の夫婦に出会う』P99ー100参照)
20
キッチンのキャビネットのアクリックの絵
21
リビングルーム ガラスのキャビネット
キャビネットには旅先で買ってきた小物が入っている。
ロシアの青年がくれた小熊のバッチは左のキャビネットに納まっている。
(第3章 1980年、第三回目の旅
『レアル宮殿で』P115参照)
カンヌで買ったピンクの容器は左、ルツェルンのコーヒーカップは右のキャビネットに入っている。
(第6章 1983年、第六回目の旅 『カンヌで買物をする』P430、
第7章 1984年、第七回目の旅 『ルツェルンの店で』P555参照)
22
リビングルーム このコンピューターでネガフィルムのスキャンをする。
スイスのカーテンと窓飾り。
23
リビングルーム ステレオの絵
24
リビングルーム 円形のテーブル
テーブルの上の靴の形をした灰皿はフランスのアプトで買った物。
(第5章 1982年、第五回目の旅
『アプトに向かう』P373参照)
25
リビングルーム 庭から採ってきた露草
26
リビングルーム 北側の窓とバラの花
これがきっかけで写真は病みつきになり、1986年、旅先で撮った写真をまとめてアパートの小さな車庫を利用して初めて写真展を開いた。
意外と好評だったので、それから二年毎に車庫で写真展を開いた。」
『幻の旅路』 第3章 1980年、第三回の旅 「ベニスで」P146より
新しい年が明けました。おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
Happy New Year!
いまから34年前(1977年)、いま住んでいるアパートに移ってきた時は、ピアノ一台と机代わりのミカン箱一箱しかありませんでした。
白壁が広がって、寒々しい感じがしたので、自分で撮った写真をもとに絵を描いて飾ることにしました。
1980年にベニスで写した写真をコンテストに出して、入選したのがきっかけで、写真を撮り始めました。
撮り始めたら止まらなくなって、部屋中写真だらけになってしまいました。
1986年、手先の器用な友人に頼んで、車一台分の車庫の壁に白板を張って、即席で展示会場を作ってもらいました。
そこに、いままで撮った旅の写真を飾って、写真展を開きました。
それから二年毎に、全部で4回開きましたが、とても人気があって、沢山の人が観にきて下さいました。
最後に写真展を開いたのは、2000年の8月。マラガコーブの図書館に付属した美術館です。
自分の家族がスイスの古城を持っていたというモルドおばさんに会ったのはこの時です。
いまは、写真を額に入れたり、会場に作品を運んだりする体力がないので、写真展は開いていません。
その代わり、私のアパートは旅先で撮った写真やお土産の小物で一杯です。
私は物質主義者ではありませんが、生きている間、少しでも楽しく暮らしたいと思っています。
それで、いつも旅の思い出に囲まれて暮らしています。
家具は結婚前に、アンティークストワーで中古の家具を購入しました。
ソファーや椅子は張り替え(upholstery)をしました。
いま壁に飾ってあるのは、私が旅先で撮った写真、私が描いた油絵、水彩画、クレパス画、母が描いた日本画、水彩画、それにスイスの画家、アルバート・アンカーの複製画などです。
今週は『Seko's Gallery』をご案内しましょう。まず、リビングルームからです。
00
美術大卒の甥が作ってくれたSEKO'S GALLERYのサイン。
I would like to show my Seko's Gallery.
These photos were taken in the living room.
昔は部屋中、鉢植えプラントがあって賑やかでしたが、二匹の猫がいたので置かないことにしました。
私はいまでもオリンパスDC35しか持っていません。
旅の写真はすべてこの小さな半自動のカメラで写しました。
最近はネガフィルムが手に入りにくいこと、現像所が限られていることなどが理由で、いまはこのカメラは殆ど使っていません。
今年のプロジェクトは今まで撮った写真のネガフィルムのスキャンをすることです。
これらの写真は娘のデジタルカメラを借りて写しました。
1
茶色の鉄のドアが錆びてきたのでアクリックで絵を描きました。
2
鉄ドア—ドライフラワーの花輪
3
茶色のドアをアクリックで絵を描きました。
『食べれる野草と料理法(新摘み草入門)』
福島誠一氏著(ふこく出版)の中の挿絵(笠原正夫氏、中野瑞枝氏)を参考にしました。
4
ドアの内側とスイスの写真
5
ドアの内側
6
入口のドア
7
入口のドアの下
8
リビングルームのスイスの窓飾り
9
リビングルーム 西北コーナー
10
リビングルーム 西北の壁の写真
11
リビングルーム 西北のコーナー 友人が作ってくれたステンドグラスのランプ
12
リビングルーム テレビのあるコーナー
油絵は北海道の大沼公園 週刊新潮の2頁のグラビア写真を参考にする。
(1975年制作)
その下のキャビネットはステレオの箱。
アクリックで花の絵を描く。
写真も油絵もすべて自己流。
特別に習っていない。
ソファーのクッションはドイツで買ったもの。
(第4章 1981年、第四回の旅
『フランクフルトの町で、スーツケース修理』P211参照)
コーヒーテーブルの上の陶器はフランス、ディーニュで買ったもの。
(第5章 1982年、第五回の旅 『ホテルの家族に会う』P362参照)
13
リビングルーム 右の写真2枚はアメリカ、マサチューセッツ州、ケープコッド(Cape Cod, Massachusetts)で撮ったもの。
1994年ボストンの友人を訪ねていったときに、彼女がケープコッドのグース池の湖畔にある彼女の友人の別荘(といっても質素な平屋建ての家)に連れて行ってくれる。
朝方、日が昇る前の一瞬をとらえた池と周囲の森の写真。
14
リビングルーム 南側 北海道、大沼公園の油絵
15
リビングルーム 食事をするテーブル
ロスアンジェルスのファーマーズマーケットでフランス製のテーブルクロスを4ー50ドル出して買って、普段用に使っている。
2010年に来たドミニクによると、フランスでは10ドルもしないで売っているとのこと。
しかも、フランス製ではないと言っていた。
来客用に数枚テーブルクロスを持っていて、ランチ用、デナー用、ティータイム用と時に応じて、取り替える。
このテーブルは、テーブルクロスを取ったら、その上でウインドーマットを切ったり、額のガラスを入れたり、作業用机にも使っている。
16
リビングルーム 庭に咲いているバラの花
17
リビングルーム 三面鏡
18
リビングルーム 猫のコーナー
19
リビングルーム アルバートとアンカーとうい猫の写真のコーナー
(第3章 1980年、第三回の旅
『ラ ロシェルでオーストラリア人の夫婦に出会う』P99ー100参照)
20
キッチンのキャビネットのアクリックの絵
21
リビングルーム ガラスのキャビネット
キャビネットには旅先で買ってきた小物が入っている。
ロシアの青年がくれた小熊のバッチは左のキャビネットに納まっている。
(第3章 1980年、第三回目の旅
『レアル宮殿で』P115参照)
カンヌで買ったピンクの容器は左、ルツェルンのコーヒーカップは右のキャビネットに入っている。
(第6章 1983年、第六回目の旅 『カンヌで買物をする』P430、
第7章 1984年、第七回目の旅 『ルツェルンの店で』P555参照)
22
リビングルーム このコンピューターでネガフィルムのスキャンをする。
スイスのカーテンと窓飾り。
23
リビングルーム ステレオの絵
24
リビングルーム 円形のテーブル
テーブルの上の靴の形をした灰皿はフランスのアプトで買った物。
(第5章 1982年、第五回目の旅
『アプトに向かう』P373参照)
25
リビングルーム 庭から採ってきた露草
26
リビングルーム 北側の窓とバラの花
『幻の旅路』とPhotographic memory
「また邪魔が入って、すっかり目が覚めてしまった。
窓の外を見ると、真っ黒な夜空にこれ以上大きくなれないような満月がポッカリ浮かんでいる。
昔映画で観たような、戦争中のヨーロッパの寂しい町の景色が、暗闇のなかに現れては消え、また現れては消えていく。」
『幻の旅路』 第3章 1980年、第三回の旅 「パリ行きの夜汽車のできごと」 P89より
十二月のある日、朝倉さんが家にお見えになりました。
お会いするのは、その日が初めてです。(12月8日)
彼が企画・編集・出版をしている『Orange Network』という小雑誌に『幻の旅路』の紹介記事を二回も載せて下さって、それが縁で知り合いました。
彼は日米メディア協会の代表で、日米を股(また)にかけて色々な方面で大活躍をしている方です。
どうりで、「朝倉巨瑞」というお名前は、どこかで見た気がします。
巨人の巨と瑞(ズイーめでたいこと)で、「Yuma」と変わった読み方をします。
彼自身、ラフ新報の『磁針』というエッセイ欄を担当していらっしゃいます。
私が拝読したのは、『敬老感謝』、『恩おくり』、『過去のものさし』、『102歳の償い』(中国に住んで黙々と善行を続けて一生を終えた山崎宏医師の話)とたった四篇だけです。
読んでいて、とても感心しました。
というのは、
・彼の文章は、一つとして難しい言葉を使わずに、限られたスペースに筆者のメッセージが正確に伝わってくる。
・漢字、ひらがな、片仮名の選択が工夫されていて、私でも辞書なしで読める。
もちろん、目も疲れない。
・はじめ、中、終わりの文章の流れがとてもスムーズで、導かれた結論に素直に入っていける。
・堅くなりがちな話を、筆者が消化して、多くの読者に分かるように、やさしく事実を提供している。
・好感の持てる文章、また読みたい文章という文章があるが、朝倉さんの書かれた文章がそれに当てはまる。
・文章全体から、筆者が見栄を張らない、心の温かい誠実な方だと感じられる。
等々です。
実際、朝倉さんにお会いしたら、私よりずっとお若い方で、外見はお坊さんのような印象を与えました。
話し方も静かで謙虚(けんきょ)、人生を悟(さと)ったような考え方をしておられる人でした。
書くことに関しては私よりずっと先輩でプロの彼が、私の拙著(せっちょ)を、
「毎日ベッドで少しずつ読んでいます。
大湾さんの人生の物語ですので、かみ締(し)めて読んでいます」
とメールがきて、大いに恐縮しました。
その彼が、質問してきたのが、今日のブログの冒頭の引用文のところです。
「旅の日記に、満月のことも書いておいたのですか?」
同じような質問を他の方からも受けました。
「旅先でこんな細かいことまで記していたら、日記帳は何冊あるのですか?」
実は、皆さんは、私が『Photographic memory』を持っているのをご存じないようです。
それで、そんな質問が出てきたのでしょう。
旅に持っていった葉書大の小さな手帳には、どこへ行ったかその地名、列車やバスの発着時刻、その時感じたことしか書いていません。
あとは、そのときに出会った人々の住所などです。
その時思ったこと、感じたこと、それに周囲の景色や情景は、全て頭の中にしっかりと記録されています。
ですから、コンピューターで何か検索するように、
[1980年、第3回の旅、アムステルダムからパリに行く夜汽車の中のこと]
と引っ張り出すと、車内の様子、車窓の景色、登場してきた人物の表情まで、まるで映画で見るように、鮮明に私の頭の中のスクリーンに時間を追って、現れてくるのです。
それゆえ、事細かに、長々と日記に記録することは、一切必要ないのです。
列車のどこに座ったか、右側か、左側か、列車はどちらの方向に動いていたか、車内はどんな様子だったか、などということは全部覚えています。
列車の窓から見た、過ぎ去っていく外の景色も映画のように上映されます。
七年間の旅の日記、『幻の旅路』の中で出てくる情景や心情は全て私の頭の中に入っていて、いつでもすぐにそのシーンが再現されるのです。
大好きなスイスのラングナウ駅を降りたら、どのように小道が続いていて、居酒屋風の「ホテル・ヒャシェン」に辿(たど)り着くかなど、いまでも地図を書いて説明できます。
(第4章 1981年 ラングナウに移動 ホテル・ヒャセンに泊る P231)
第4章 (1981年)のテンドの村に行った時のこともとても良く覚えています。
山間を走る小さな列車の中の様子、両側に迫ってくる山々、物寂(ものさび)しい山間(やまあい)の部落、ひとり降り立ったテンドの村、崖(がけ)っぷちに造られた部落、中世の教会の内部、列車を待っていたときに入ったカフェーの中の様子、テンド駅の構内、ニースに下る列車の中、と、もし私が優れた映画監督でしたら、すべてこと細かく、この時のことを映画に制作し、再現できたでしょう。
しかし、残念ながら、私は映画監督にはなれませんでした。
第5章(1982年)に登場したフランスのディーニュの町も、アプトの村の大通りも頭の中に入っていていますから、地図が書けそうです。
第7章(1984年)、『マルセイユに行く列車の中で、余計な世話を焼く』 (P592)では、列車の中の様子が余り書かれていませんが、私が車両のどこに座ったか、足の悪い男はどこに座ったか、彼が持っていたくしゃくしゃの茶色の紙袋はどこに置いてあったか、女学生はどの席だったか、と、絵を描いて説明できます。
(*それぞれのエピソードはブログテーマで選択して、お読み下さい)
もし、私が何かあって警察で職務質問されたら、一番詳しい情報を提供できる証人になるでしょう。
誰でもそうだと思いますが、何か印象に残ったことは、はっきりと、そしていつまでも覚えているものです。
ですから、私にとってこの日記を書くことは、また昔撮ったビデオを映写機で回すのと同じことですから、何ら問題はない訳です。
ただ、肝心な問題は、私の日本語の語彙(ごい)と表現力です。
これは日本語を忘れた私には最高に難しいことでした。
限られた語彙と表現で、自分が見たこと、感じたことを正確に書き著すことの難しさを、今回初めて経験しました。
先日、チャンネル2、CBSの 『 60 Minutes 』という番組で、
『 Superior autobiographical memory』
を持っている驚異の人たちを紹介していました。
(2010年12月19日放映)
例えば、
「2000年の12月31日、あなたは何をしていましたか?」
とか、
「その日に、世界ではどんなニュースがありましたか?」
と聞かれると、この超人的な記憶を持っている人たちは、99%(この数字はよく覚えていません)正確な答えを出すそうです。
1988年に製作された“Rain Man”という映画がありました。
Dustin Hoffman, Tom Cruise の出演で、翌年のアカデミー賞の四部門を獲得した映画です。
観られた方も多いと思いますが、超人的な記憶力を持った自閉症(じへいしょう)の兄と弟の珍道中(ちんどうちゅう)の話です。
この映画の中のお兄さんは一般的な知識や興味は全くなく、日常の生活も一人では余り頼りありません。
ところが、『 60 Minutes 』で紹介された『 Superior autobiographical memory』を持っている人たちは、皆それぞれの分野で成功し、活躍している人たちでした。
一人は女優さんでしたが、彼女の押し入れ(Walk-in-Closet)を開けたら、何百という靴が一分の隙(すき)もなく整然と置かれていました。
一つのペアーは前向き、次のペアーは後ろ向き、とそのパタンで全ての靴が置かれています。
見事と言えば見事ですが、その整然さに、感心するより、圧倒されます。
そして、彼女は、そういうところが普通ではなく「行き過ぎ」、悪くいえば「異常」(Obsessive)なのが分かりました。
彼女だけでなく、『Superior autobiographical memory』を持っている人たちは
皆『Obsessive-Compulsive Disorder (OCD)』の傾向を持っていると説明していました。
この特質を持っている人は、これを利用して、いい方にも伸びていき、成功しますが、悪い記憶も忘れられないので、後を引いて、ネガティブな影響もあるそうです。
さて、私の場合はどうでしょう。
私の記憶力は、彼らとは全く違います。
私は、数字を覚えるのはまったくダメです。
電話番号はもちろんのこと、いまでも自分の Social Security Numberでさえ正確に覚えていません。
いつも聞かれると、確か、6があった、とか、5があった、その次の番号は9かなという工合に、たった9けたの数字なのに、見ないで言うのは全く危なっかしいです。
ですから、何年の何月にと聞かれても、答えられません。
片付けるのは他の人より上手ですが、『Superior autobiographical memory』を持っている人たちのように、行き過ぎるほど、整然とはしていません。
特に、最近は体が動かないので、毎日の掃除も手抜き、あちらこちら埃(ほこり)が溜(た)まっています。
ただ、先ほど書きましたように、私の『Photographic Memory』 は、他の人より優れているようです。
それで、うちでは、夫や娘が何と言ったか、どんな口調で言ったかなど、私が全て覚えていて、テープレコーダーはいりません。
この特質を持っていると、いいことは、人が親切にしてくれたことを絶対忘れないことです。
マイナスのことは、嫌なことも覚えていて、これは人間関係に悪影響を与えます。
新しい年は、いままでの悪いことは忘れて、楽しいいいことだけを覚えておこうと思います。
2011年の皆様のご健康とお幸せを心からお祈り致します。
来年もよろしくお願い致します。
Wishing you a new year that brings good friends, good health, good luck, and good memories. Happy New Year!
Langnau, Switzerland 19910725
「いつも懐かしく思い出すラングナウの青い空」
『幻の旅路』グラビア写真の頁 P10-11より
幻の旅路―1978年~1984年 ヨーロッパひとり旅/大湾 節子
¥2,940
Amazon.co.jp
全国の書店(注文)・オンライン・本の泉社お買い求めいただけます。
本の泉社:03-5800-8494
海外:著者から直接お求め下さい。
窓の外を見ると、真っ黒な夜空にこれ以上大きくなれないような満月がポッカリ浮かんでいる。
昔映画で観たような、戦争中のヨーロッパの寂しい町の景色が、暗闇のなかに現れては消え、また現れては消えていく。」
『幻の旅路』 第3章 1980年、第三回の旅 「パリ行きの夜汽車のできごと」 P89より
十二月のある日、朝倉さんが家にお見えになりました。
お会いするのは、その日が初めてです。(12月8日)
彼が企画・編集・出版をしている『Orange Network』という小雑誌に『幻の旅路』の紹介記事を二回も載せて下さって、それが縁で知り合いました。
彼は日米メディア協会の代表で、日米を股(また)にかけて色々な方面で大活躍をしている方です。
どうりで、「朝倉巨瑞」というお名前は、どこかで見た気がします。
巨人の巨と瑞(ズイーめでたいこと)で、「Yuma」と変わった読み方をします。
彼自身、ラフ新報の『磁針』というエッセイ欄を担当していらっしゃいます。
私が拝読したのは、『敬老感謝』、『恩おくり』、『過去のものさし』、『102歳の償い』(中国に住んで黙々と善行を続けて一生を終えた山崎宏医師の話)とたった四篇だけです。
読んでいて、とても感心しました。
というのは、
・彼の文章は、一つとして難しい言葉を使わずに、限られたスペースに筆者のメッセージが正確に伝わってくる。
・漢字、ひらがな、片仮名の選択が工夫されていて、私でも辞書なしで読める。
もちろん、目も疲れない。
・はじめ、中、終わりの文章の流れがとてもスムーズで、導かれた結論に素直に入っていける。
・堅くなりがちな話を、筆者が消化して、多くの読者に分かるように、やさしく事実を提供している。
・好感の持てる文章、また読みたい文章という文章があるが、朝倉さんの書かれた文章がそれに当てはまる。
・文章全体から、筆者が見栄を張らない、心の温かい誠実な方だと感じられる。
等々です。
実際、朝倉さんにお会いしたら、私よりずっとお若い方で、外見はお坊さんのような印象を与えました。
話し方も静かで謙虚(けんきょ)、人生を悟(さと)ったような考え方をしておられる人でした。
書くことに関しては私よりずっと先輩でプロの彼が、私の拙著(せっちょ)を、
「毎日ベッドで少しずつ読んでいます。
大湾さんの人生の物語ですので、かみ締(し)めて読んでいます」
とメールがきて、大いに恐縮しました。
その彼が、質問してきたのが、今日のブログの冒頭の引用文のところです。
「旅の日記に、満月のことも書いておいたのですか?」
同じような質問を他の方からも受けました。
「旅先でこんな細かいことまで記していたら、日記帳は何冊あるのですか?」
実は、皆さんは、私が『Photographic memory』を持っているのをご存じないようです。
それで、そんな質問が出てきたのでしょう。
旅に持っていった葉書大の小さな手帳には、どこへ行ったかその地名、列車やバスの発着時刻、その時感じたことしか書いていません。
あとは、そのときに出会った人々の住所などです。
その時思ったこと、感じたこと、それに周囲の景色や情景は、全て頭の中にしっかりと記録されています。
ですから、コンピューターで何か検索するように、
[1980年、第3回の旅、アムステルダムからパリに行く夜汽車の中のこと]
と引っ張り出すと、車内の様子、車窓の景色、登場してきた人物の表情まで、まるで映画で見るように、鮮明に私の頭の中のスクリーンに時間を追って、現れてくるのです。
それゆえ、事細かに、長々と日記に記録することは、一切必要ないのです。
列車のどこに座ったか、右側か、左側か、列車はどちらの方向に動いていたか、車内はどんな様子だったか、などということは全部覚えています。
列車の窓から見た、過ぎ去っていく外の景色も映画のように上映されます。
七年間の旅の日記、『幻の旅路』の中で出てくる情景や心情は全て私の頭の中に入っていて、いつでもすぐにそのシーンが再現されるのです。
大好きなスイスのラングナウ駅を降りたら、どのように小道が続いていて、居酒屋風の「ホテル・ヒャシェン」に辿(たど)り着くかなど、いまでも地図を書いて説明できます。
(第4章 1981年 ラングナウに移動 ホテル・ヒャセンに泊る P231)
第4章 (1981年)のテンドの村に行った時のこともとても良く覚えています。
山間を走る小さな列車の中の様子、両側に迫ってくる山々、物寂(ものさび)しい山間(やまあい)の部落、ひとり降り立ったテンドの村、崖(がけ)っぷちに造られた部落、中世の教会の内部、列車を待っていたときに入ったカフェーの中の様子、テンド駅の構内、ニースに下る列車の中、と、もし私が優れた映画監督でしたら、すべてこと細かく、この時のことを映画に制作し、再現できたでしょう。
しかし、残念ながら、私は映画監督にはなれませんでした。
第5章(1982年)に登場したフランスのディーニュの町も、アプトの村の大通りも頭の中に入っていていますから、地図が書けそうです。
第7章(1984年)、『マルセイユに行く列車の中で、余計な世話を焼く』 (P592)では、列車の中の様子が余り書かれていませんが、私が車両のどこに座ったか、足の悪い男はどこに座ったか、彼が持っていたくしゃくしゃの茶色の紙袋はどこに置いてあったか、女学生はどの席だったか、と、絵を描いて説明できます。
(*それぞれのエピソードはブログテーマで選択して、お読み下さい)
もし、私が何かあって警察で職務質問されたら、一番詳しい情報を提供できる証人になるでしょう。
誰でもそうだと思いますが、何か印象に残ったことは、はっきりと、そしていつまでも覚えているものです。
ですから、私にとってこの日記を書くことは、また昔撮ったビデオを映写機で回すのと同じことですから、何ら問題はない訳です。
ただ、肝心な問題は、私の日本語の語彙(ごい)と表現力です。
これは日本語を忘れた私には最高に難しいことでした。
限られた語彙と表現で、自分が見たこと、感じたことを正確に書き著すことの難しさを、今回初めて経験しました。
先日、チャンネル2、CBSの 『 60 Minutes 』という番組で、
『 Superior autobiographical memory』
を持っている驚異の人たちを紹介していました。
(2010年12月19日放映)
例えば、
「2000年の12月31日、あなたは何をしていましたか?」
とか、
「その日に、世界ではどんなニュースがありましたか?」
と聞かれると、この超人的な記憶を持っている人たちは、99%(この数字はよく覚えていません)正確な答えを出すそうです。
1988年に製作された“Rain Man”という映画がありました。
Dustin Hoffman, Tom Cruise の出演で、翌年のアカデミー賞の四部門を獲得した映画です。
観られた方も多いと思いますが、超人的な記憶力を持った自閉症(じへいしょう)の兄と弟の珍道中(ちんどうちゅう)の話です。
この映画の中のお兄さんは一般的な知識や興味は全くなく、日常の生活も一人では余り頼りありません。
ところが、『 60 Minutes 』で紹介された『 Superior autobiographical memory』を持っている人たちは、皆それぞれの分野で成功し、活躍している人たちでした。
一人は女優さんでしたが、彼女の押し入れ(Walk-in-Closet)を開けたら、何百という靴が一分の隙(すき)もなく整然と置かれていました。
一つのペアーは前向き、次のペアーは後ろ向き、とそのパタンで全ての靴が置かれています。
見事と言えば見事ですが、その整然さに、感心するより、圧倒されます。
そして、彼女は、そういうところが普通ではなく「行き過ぎ」、悪くいえば「異常」(Obsessive)なのが分かりました。
彼女だけでなく、『Superior autobiographical memory』を持っている人たちは
皆『Obsessive-Compulsive Disorder (OCD)』の傾向を持っていると説明していました。
この特質を持っている人は、これを利用して、いい方にも伸びていき、成功しますが、悪い記憶も忘れられないので、後を引いて、ネガティブな影響もあるそうです。
さて、私の場合はどうでしょう。
私の記憶力は、彼らとは全く違います。
私は、数字を覚えるのはまったくダメです。
電話番号はもちろんのこと、いまでも自分の Social Security Numberでさえ正確に覚えていません。
いつも聞かれると、確か、6があった、とか、5があった、その次の番号は9かなという工合に、たった9けたの数字なのに、見ないで言うのは全く危なっかしいです。
ですから、何年の何月にと聞かれても、答えられません。
片付けるのは他の人より上手ですが、『Superior autobiographical memory』を持っている人たちのように、行き過ぎるほど、整然とはしていません。
特に、最近は体が動かないので、毎日の掃除も手抜き、あちらこちら埃(ほこり)が溜(た)まっています。
ただ、先ほど書きましたように、私の『Photographic Memory』 は、他の人より優れているようです。
それで、うちでは、夫や娘が何と言ったか、どんな口調で言ったかなど、私が全て覚えていて、テープレコーダーはいりません。
この特質を持っていると、いいことは、人が親切にしてくれたことを絶対忘れないことです。
マイナスのことは、嫌なことも覚えていて、これは人間関係に悪影響を与えます。
新しい年は、いままでの悪いことは忘れて、楽しいいいことだけを覚えておこうと思います。
2011年の皆様のご健康とお幸せを心からお祈り致します。
来年もよろしくお願い致します。
Wishing you a new year that brings good friends, good health, good luck, and good memories. Happy New Year!
Langnau, Switzerland 19910725
「いつも懐かしく思い出すラングナウの青い空」
『幻の旅路』グラビア写真の頁 P10-11より
幻の旅路―1978年~1984年 ヨーロッパひとり旅/大湾 節子
¥2,940
Amazon.co.jp
全国の書店(注文)・オンライン・本の泉社お買い求めいただけます。
本の泉社:03-5800-8494
海外:著者から直接お求め下さい。
人の出会いは方程式ーIt's a small world. 初めてブログを開設する。
「人生は必要なときに必要な人と巡り合うようになっていて、最終的には自分の求めている方向に道が開けていくものらしい。
それはまるで数学の方程式を解いているような感じがする。
1から2、2から3が導き出されるようになっていて、一つ一つのステップを全て通過していかないと、最後の答えが出てこないのだから。」
『幻の旅路』 第4章 1981年、第四回目の旅 『モンブラン』 P230-231より
「こんにちはー」
明るい声がして、いづみさんとタックさんが12月28日(火曜日)、私のアパートの戸口に現れました。
人見知りなど全く知らない、笑顔一杯の二人に、我が小さなリビングルームがぱーっと明るくなりました。
今回初めて自費出版した『幻の旅路』のPRに悪戦苦闘していると言ったら、
「これからはインターネットの時代ですよ。
ブログを作るのを教えて上げるから、その中で自分の本を宣伝しなさい」
と、若い二人に教えられました。
私がコンピューターを使えるようになったのは5年前。
いまでも、デジタルカメラは持っていないし、石器時代にいまだ住んでいる私たち夫婦。
ブログなんて、まったく縁がないと思っていたのに、いづみさん、私をコンピューターの前に座らせて、ほらそこを押して、そうそうと言っている間に、あっという間にブログが出来上がってしまいました。
まったく考えてもいなかったこの若い二人に出会ったのは先週のこと。
話せば長いです。
今年の1月16日、パサデナセミナーの講演会で、芥川受賞など様々な賞を受賞した米谷ふみ子さんの講演を聴きにいきました。
演題は、
『長年日本社会、出版界、メディアと付き合った物書きの驚き』
初めての自費出版で、色々と戸惑う経験をしていた私は、これこそ私が求めていた講演会だと飛んでいきました。
「なるほど、こういうことだったのか」
と、米谷さんのお話に頷くことが多く、講演の後で、色々と質問をしました。
米谷さんはご自分の経験をもとにして、とても親切に教えて下さいました。
講演会の帰り際に、
「元気のいい人だ」
と言って、私に名刺を渡してくれた一人の男性がいました。
それから10ヶ月たって、日本からやっと『幻の旅路』が着いたので、12月5日、自宅で出版記念パーティーを開くことにしました。
どうかなと思いましたが、一応佐藤さんという名刺をくれた男性にもメールを送くりました。
そしたら意外にも、
「行きます」
とメールがきました。
その日はあいにくマリンバの演奏会がありましたが、佐藤さんは途中で抜けて、私のパーティーに顔を出してくれました。
最初は興味半分、それで友だちと二人で一冊本を買おうと約束していたらしいですが、私がそのパーティーで必死になってPRをしている姿を見て、同情をしたのでしょう。
最初の約束とは違って、それぞれ一冊ずつ買って下さいました。
数日後、低い声で電話がありました。
「佐藤ですが...」
まったく期待していなかったのに、『幻の旅路』がなかなか面白いと、わざわざ電話をかけてきてくれたのです。
そして早速、親友の水野さんの会社に行って、彼にこの本の宣伝をしてきてくれました。
雨の日、水野さんから受け取ったお金を持って、車でやって来ましたが、道に迷って、私の家を見つけられなかったらしいです。
「大湾さん、お金は郵便で送るから、水野さんのところに本を届けて下さいよ」
と、言う訳で、雨の日、水野さんのところに本を届けに行きました。
そしたら、そこで、私を待っていた若い二人を紹介されました。
「こちらがいづみさん、こちらがタックさん」
私が旅の話をしたら、二人とも目がキラキラ輝いて、頷(うなず)いています。
何だかこの若者たちも私と同じ波長を持っているようだと思ったので、早速、
「良かったら、来週家に来ませんか」
と誘いました。
それが、12月28日のことです。
そして、この二人がやって来て、全く予想も期待もしなかったのに、私のブログを作ってくれました。
私の強い願いが、この日の出会いにつながったようです。
私が30代、『幻の旅路』で書いていたことが、ここでも実証されました。
ありがとう。
パサデナセミナーを開いて下さった半田さん。
講演をして下さった米谷さん。
名刺を下さった佐藤さん。
若い二人を紹介して下さった水野さん。
そして、エネルギー溢れた若いお二人、いづみさんとタックさん。
お蔭さまで、また世界が広がりました。
少し長くなりますが、似たような話がまだあります。
Wildegg Castle, Switzerland 1993/09/04
『幻の旅路』のグラビアの頁 (P20)の写真を見て下さい。
キャプションに、
『スイス・ヴィルデック城の窓辺のプラント 2000年 私の写真展でこの城の子孫と偶然巡り合い友だちになる』
と書いてありますね。
これだけではお分かりにならないでしょう。
ちょっと説明させて下さい。
2000年、パロスバルデスの古い格式のある図書館に付属しているギャラリーで写真展を開きました。
そのとき、何千枚もある写真の中から、夫のデイビットが選んでくれた、上の写真を招待状の写真に使いました。
実は、これは1992年、デイビットが見つけたスイスの古城の内部です。
彼は私と違って、どこか旅に出る時は下調べを徹底的にしてから出かけます。
1992年、彼は一人でスイスに出かけましたが、本で見つけたこのヴィルデック城を訪れました。
そして私にぜひ気に入るから、行くように勧めました。
1993年、私はスイスを訪れ、早速この城を訪ねてみました。
ルツェルンからローカル線に乗って、バスに乗り継いで、城に向かいました。
その日は雨が降っていましたが、城の周りは畑で、こんな所にお城が本当にあるのかしらと思いながら、足を進めました。
着いたところは、小さな三、四階建ての石の建物で、その隣は農家。
農家の壁にあさがおが巻き付いていました。
城の入口に草ぼうきが立てかけてあり、乳母車が置かれていました。
小さな庭にはオレンジが植えてありました。
中に入ると、鎧兜(よろいかぶと)の類はなく、たった今まで誰か人が住んでいたような質素な木製の家具が置かれていました。
デイビットが言っていたように、私もこのお城が大好きになりました。
その一つの窓辺に置かれていたプラントを写した写真が上の写真です。
さて、2000年8月の写真展のときに時を移します。
この写真を入れた写真展のお知らせを色々な日系の新聞に送りました。一ヶ所、サウスベイ近郊に配布されている「Daily Breeze」という新聞社にも送りました。
写真展が開催中、私は毎日ギャラリーに行って、写真を観にきて下さった方とお話をしていました。
ある日のこと、背の高い老婦人が、
「Seko, Seko (セコ、セコ)はどこ?」
と、白髪の老人と一緒に、大股でギャラリーを横切ってやって来ました。
ただで配られる「Daily Breeze」の日曜版に載っていた、私の写真展の広告を見てやって来たというのです。
そしてなんと言ったと思います。
私が紹介の写真に使ったスイス・ヴィルデック城は、昔、自分の家族が持っていたというのです。
世界中、何千何万といる人の中で、この写真が自分の家族のお城の窓辺だと気がつく人は、何人いるでしょう。彼女一人しかいません。
彼女はモルドさんと言って、オランダに住み、パロスバルデスに移ってきたのは、ずっとずっと昔のことです。
それでも、彼女の英語はヨーロッパの強いアクセントが残っています。
そのとき、彼女は80歳、私が55歳。いまから10年前のことです。
二人が出会うのに、私は55年かかり、モルドさんは80年かかったということです。
正しくこの世は "It's a small world" です。
それから、すっかり友達になって、いまではとても親しくしています。
もちろん、12月の出版パーティーには、もう一人の親友のバーバラさんと一緒に来てくれて、日本語を読めないのに、本を一冊買ってくれました。
バーバラさんは私が30代ヨーロッパに毎年でかけていた頃、成人学校のフランス語教室で出会い、これまた姉妹以上に親しくしているお友だちです。
私が二人を招いたときの写真が下の写真です。
モルドさん(左)、私(中央)、バーバラさん(右)
どうぞ、私が元気なうちに私の小さなアパートに遊びにいらっしゃってください。
体にいい、美味しいカリフォルニア料理を御馳走しますよ。
それはまるで数学の方程式を解いているような感じがする。
1から2、2から3が導き出されるようになっていて、一つ一つのステップを全て通過していかないと、最後の答えが出てこないのだから。」
『幻の旅路』 第4章 1981年、第四回目の旅 『モンブラン』 P230-231より
「こんにちはー」
明るい声がして、いづみさんとタックさんが12月28日(火曜日)、私のアパートの戸口に現れました。
人見知りなど全く知らない、笑顔一杯の二人に、我が小さなリビングルームがぱーっと明るくなりました。
今回初めて自費出版した『幻の旅路』のPRに悪戦苦闘していると言ったら、
「これからはインターネットの時代ですよ。
ブログを作るのを教えて上げるから、その中で自分の本を宣伝しなさい」
と、若い二人に教えられました。
私がコンピューターを使えるようになったのは5年前。
いまでも、デジタルカメラは持っていないし、石器時代にいまだ住んでいる私たち夫婦。
ブログなんて、まったく縁がないと思っていたのに、いづみさん、私をコンピューターの前に座らせて、ほらそこを押して、そうそうと言っている間に、あっという間にブログが出来上がってしまいました。
まったく考えてもいなかったこの若い二人に出会ったのは先週のこと。
話せば長いです。
今年の1月16日、パサデナセミナーの講演会で、芥川受賞など様々な賞を受賞した米谷ふみ子さんの講演を聴きにいきました。
演題は、
『長年日本社会、出版界、メディアと付き合った物書きの驚き』
初めての自費出版で、色々と戸惑う経験をしていた私は、これこそ私が求めていた講演会だと飛んでいきました。
「なるほど、こういうことだったのか」
と、米谷さんのお話に頷くことが多く、講演の後で、色々と質問をしました。
米谷さんはご自分の経験をもとにして、とても親切に教えて下さいました。
講演会の帰り際に、
「元気のいい人だ」
と言って、私に名刺を渡してくれた一人の男性がいました。
それから10ヶ月たって、日本からやっと『幻の旅路』が着いたので、12月5日、自宅で出版記念パーティーを開くことにしました。
どうかなと思いましたが、一応佐藤さんという名刺をくれた男性にもメールを送くりました。
そしたら意外にも、
「行きます」
とメールがきました。
その日はあいにくマリンバの演奏会がありましたが、佐藤さんは途中で抜けて、私のパーティーに顔を出してくれました。
最初は興味半分、それで友だちと二人で一冊本を買おうと約束していたらしいですが、私がそのパーティーで必死になってPRをしている姿を見て、同情をしたのでしょう。
最初の約束とは違って、それぞれ一冊ずつ買って下さいました。
数日後、低い声で電話がありました。
「佐藤ですが...」
まったく期待していなかったのに、『幻の旅路』がなかなか面白いと、わざわざ電話をかけてきてくれたのです。
そして早速、親友の水野さんの会社に行って、彼にこの本の宣伝をしてきてくれました。
雨の日、水野さんから受け取ったお金を持って、車でやって来ましたが、道に迷って、私の家を見つけられなかったらしいです。
「大湾さん、お金は郵便で送るから、水野さんのところに本を届けて下さいよ」
と、言う訳で、雨の日、水野さんのところに本を届けに行きました。
そしたら、そこで、私を待っていた若い二人を紹介されました。
「こちらがいづみさん、こちらがタックさん」
私が旅の話をしたら、二人とも目がキラキラ輝いて、頷(うなず)いています。
何だかこの若者たちも私と同じ波長を持っているようだと思ったので、早速、
「良かったら、来週家に来ませんか」
と誘いました。
それが、12月28日のことです。
そして、この二人がやって来て、全く予想も期待もしなかったのに、私のブログを作ってくれました。
私の強い願いが、この日の出会いにつながったようです。
私が30代、『幻の旅路』で書いていたことが、ここでも実証されました。
ありがとう。
パサデナセミナーを開いて下さった半田さん。
講演をして下さった米谷さん。
名刺を下さった佐藤さん。
若い二人を紹介して下さった水野さん。
そして、エネルギー溢れた若いお二人、いづみさんとタックさん。
お蔭さまで、また世界が広がりました。
少し長くなりますが、似たような話がまだあります。
Wildegg Castle, Switzerland 1993/09/04
『幻の旅路』のグラビアの頁 (P20)の写真を見て下さい。
キャプションに、
『スイス・ヴィルデック城の窓辺のプラント 2000年 私の写真展でこの城の子孫と偶然巡り合い友だちになる』
と書いてありますね。
これだけではお分かりにならないでしょう。
ちょっと説明させて下さい。
2000年、パロスバルデスの古い格式のある図書館に付属しているギャラリーで写真展を開きました。
そのとき、何千枚もある写真の中から、夫のデイビットが選んでくれた、上の写真を招待状の写真に使いました。
実は、これは1992年、デイビットが見つけたスイスの古城の内部です。
彼は私と違って、どこか旅に出る時は下調べを徹底的にしてから出かけます。
1992年、彼は一人でスイスに出かけましたが、本で見つけたこのヴィルデック城を訪れました。
そして私にぜひ気に入るから、行くように勧めました。
1993年、私はスイスを訪れ、早速この城を訪ねてみました。
ルツェルンからローカル線に乗って、バスに乗り継いで、城に向かいました。
その日は雨が降っていましたが、城の周りは畑で、こんな所にお城が本当にあるのかしらと思いながら、足を進めました。
着いたところは、小さな三、四階建ての石の建物で、その隣は農家。
農家の壁にあさがおが巻き付いていました。
城の入口に草ぼうきが立てかけてあり、乳母車が置かれていました。
小さな庭にはオレンジが植えてありました。
中に入ると、鎧兜(よろいかぶと)の類はなく、たった今まで誰か人が住んでいたような質素な木製の家具が置かれていました。
デイビットが言っていたように、私もこのお城が大好きになりました。
その一つの窓辺に置かれていたプラントを写した写真が上の写真です。
さて、2000年8月の写真展のときに時を移します。
この写真を入れた写真展のお知らせを色々な日系の新聞に送りました。一ヶ所、サウスベイ近郊に配布されている「Daily Breeze」という新聞社にも送りました。
写真展が開催中、私は毎日ギャラリーに行って、写真を観にきて下さった方とお話をしていました。
ある日のこと、背の高い老婦人が、
「Seko, Seko (セコ、セコ)はどこ?」
と、白髪の老人と一緒に、大股でギャラリーを横切ってやって来ました。
ただで配られる「Daily Breeze」の日曜版に載っていた、私の写真展の広告を見てやって来たというのです。
そしてなんと言ったと思います。
私が紹介の写真に使ったスイス・ヴィルデック城は、昔、自分の家族が持っていたというのです。
世界中、何千何万といる人の中で、この写真が自分の家族のお城の窓辺だと気がつく人は、何人いるでしょう。彼女一人しかいません。
彼女はモルドさんと言って、オランダに住み、パロスバルデスに移ってきたのは、ずっとずっと昔のことです。
それでも、彼女の英語はヨーロッパの強いアクセントが残っています。
そのとき、彼女は80歳、私が55歳。いまから10年前のことです。
二人が出会うのに、私は55年かかり、モルドさんは80年かかったということです。
正しくこの世は "It's a small world" です。
それから、すっかり友達になって、いまではとても親しくしています。
もちろん、12月の出版パーティーには、もう一人の親友のバーバラさんと一緒に来てくれて、日本語を読めないのに、本を一冊買ってくれました。
バーバラさんは私が30代ヨーロッパに毎年でかけていた頃、成人学校のフランス語教室で出会い、これまた姉妹以上に親しくしているお友だちです。
私が二人を招いたときの写真が下の写真です。
モルドさん(左)、私(中央)、バーバラさん(右)
どうぞ、私が元気なうちに私の小さなアパートに遊びにいらっしゃってください。
体にいい、美味しいカリフォルニア料理を御馳走しますよ。