恵まれている。



恵まれている。
という感覚は、
人に言われても実感できないものなのだろうとつくづく思う。

「あなたは恵まれているんだからね」

っていう常套句。

子どもの頃から、幾度となく、
聞かされて来た言葉だな。

何か、つらいことがある度に。
何か、不都合がある度に。

「あなたは“それでも”恵まれている」。


それでも。


客観的にそう、であっても、
主観的にそう、でなければ、
恵まれているか否かというのは、
人間の積極的な行動の動機にはなり得ないだろう、
というのが、
わたしの実感。


例えば、住環境や食事情に恵まれているか否かというのは、
数値的に表現することはできる。

アフガンと日本を比べるとか
スーダンと日本を比べるとか

GDPとか、それはもちろん、
それへの反論で生まれた、他のどのような幸福を測る指数であったとしても、
はじき出されたものは、はじき出されたもの。
胸のうちや顔の表情に、にじみ出るものではない。


仕事が大嫌いだった新卒すぐの頃、
何かと不貞腐れていたわたしに、
先輩が言った。

「こんな仕事で、これだけのお給料貰えるって、こんな恵まれた環境、ないのよ?」

そのときは、働くこと=お給料をもらうこと=生きること、
という、基本的な概念を身に叩き込むのに必死で、
それが、何にくらべてどんなに恵まれているのか、
まで、考える余裕は無かったけれど、
そうなのかな、そうなのかもしれない、でもそれがなんのかな?
とぼんやり思いながら、
辛い時には、その言葉を思い出してみたりもした。

実際、転職を重ねて来たり、
いろいろな生活の状況を見て来たりして、
先輩の言っていたことは、
世の中的には、きっと大体あっているのだと実感してきている。

それに、
労働することは現代社会において生きることであり
労働することの対価としての賃金
という図式にも、間違いはない。

それでも、
やっぱり、
「こんな仕事でこれだけのお給料を得られること」で、
「ああ、わたしは恵まれているな」と
”実感して、だから続けたい”とは、ならなかった。


どちらかといえば、
百戦錬磨の「人転がし」のような、
刺激的で面白可笑しい人たちにたくさん出会えたことが、
わたしがその職場環境に身をおいて、
恵まれているな、と実感したこと、で、
その場にずっといたいな、と思ったことだったかな。


思い返せば
漠然と「コミュニケーションの力で平和を創る仕事をする!」
なんて思って、宣言してはいたけれど、
(上司との面談でそういうこと言うなんて、今思えば厄介者…)
さてどうやって、というときに、
その将来の道筋をはっきりと見つけることができずにいて、
とにかく、
メディアに近い仕事をして、
そこで、いろいろな人に出会いたい、と思っていた。
いろいろな人に出会うことで、切り開きたい、と思っていた。


「~たい」という希望が叶ったときに、
わたしは幸運だな、恵まれているな、だから、
(ますます)「~たい」と、
と、思うのに至り、
その行動のサイクルが回るのに違いない。


食べたいものが食べられて、わたしは恵まれているな、とか。
一緒にいたい人と一緒にいられて、わたしは恵まれているな、とか。
着たい服が着られて、わたしは恵まれているな、とか。
眠りたいときに安心して眠れて、わたしは恵まれているな、とか。
行きたい場所に自由に旅行ができて、わたしは恵まれているな、とか。

だから、
この仕事をしていたいなとか
この人と一緒に居られるように努力していたいなとか
スタイルキープしていたいなとか
安全な街に住んでいたいなとか
平和な世界に暮らしていたいなとか

だから、
そのために何ができるだろう?

考えられ行動できる自分であるたいなとか。


生活の場面にある、
そういう時々から、
恵まれていることは
自分で実感されたときに
大きな世界に繋がる
自分の行動に繋がる。


だから漠然と
例えば電車に乗っているとき、リビングでごろ寝をしているとき、
に、
「恵まれない子どもに救いの手を」
とか
「現代の若者は恵まれていない」
とか
広告やらニュースやらからそんな言葉が飛び出して来たとして、
それが恵まれていないのか否か、
何に比べて?
自分に比べて?
自分の何に比べて?

「腹に落ちない」のは、そういうこと。

言葉ばかりが滑らかに転がり落ちて
誰も動かないし動けない。


例えば広告で、
Youという呼び掛けは効果的だと言われているとして、
(「あなた」によって未来は変えられる、といったような。)
そのYouが起こすよう促されている行動は、
Youが「~たい」と思っていることなのか。
(ジャニさんみたいになって来た…)


その後の反応はどちらでもよい:
それに反する状況があるから変えたいと思うか
それを促進する環境があるから動きたいと思うか

「賢い」わたしたちは
客観的に見て、聞いて、認識することはできても、
その結果、行動へ移すことは難しい。

体を動かす、というのは、想像以上に難しい。
想像以上に、強い意識がないと難しい。
あるいは、想像もできない力…本能的な、情熱的な、何かがないと難しい。

だから
「恵まれている」「恵まれていない」
の言葉だけで片付けられようとするものの周囲に群がる問題は、
きっとなかなか解決しない。

貧困とか
就職や労働環境とか
家族とか
戦争とか
自然環境とか

かといって…
誰もが
生活の小さなことから
世界の大きなことへ
「自然と」繋げて考えるのは
難しいことだとして、
それでは、
自分以外の誰かに、
自分の「変えたい」情熱を、共有しようとするときには、
例えば隣人が、
「~たい」と(主体として新たに)思う環境をつくり出すことから始めるか
「~たい」と(既に)思っている状況、その瞬間を利用しようとするのか

すごくピンポイントに、パーソナルな部分を切り開いていかなくちゃならない。


だから、
例えば、政治や社会の問題をコミュニケーションするときは特に、
本当はポスターの文言一本、記者会見一本、で済まされるものではなく、
とても骨の折れる
人と人との、
計算されつくした格闘技のようなもので
そこでは
偶然と知覚される出会いすら必然であり、
それが起こるために、
集中して行われるべきもの。


片手間のコミュニケーションでは、人は動かない。
時間(時代、ではなく!)遅れのコミュニケーションでも、捉えられない。

人を駆り立てることは
何かに比べて恵まれているとか恵まれていないとかいう
客観的なことばや数字では実現されない。
(例えば、大学生の就職内定率が◯%だ、問題だ、と言われても、
それについてもっと知りたい、その状況を変えたい、と思っている人がどれだけいるだろうか、という疑問。)

その人がその問題を解決したいように、
したくなるように、駆り立てること。

しかも、それは常にネガティブな動機(不安や不満)でなくてよいのだ。
むしろ、食べたい寝たい買いたい参加したい、といったような、
ポジティブな動機を駆り立てる可能性を探ることを考える方が、
きっともっと楽しいし、継続的な力になるのじゃないかなと思う。


と…

収拾がつかない風。


何となく
言論が溢れているのを、ただただ眺めていて
自分自身も
言葉だけが空回りしているのを、ただただ感じていて
ストレスが貯まっている。


何が恵まれていて
何が恵まれていないのか

それはわたしたちの行動の
原動力になりうるのか


どこか惚けた、贅沢なストレスに満ちた環境で
考えたことなのでありました。


考えたところで
この考えも
この考えが表された言葉も
今、隣の誰かを動かすことにはならない。



行き着くところは、
いつも思い出される、
レナード・バーンスタインの
広島へ、平和へ、寄せることば。

“Too many words already – not enough action!”


恵まれているかいないかの定義を置いて
或いは
恵まれていると実感したわたしは、
それが十分なのか否かを考えるのは
きっとナンセンスなんじゃないだろうか?



体を、動かしたい!!!
いよいよ
画面下に映る「アナログ放送は終了します」も、
見飽きて来たなぁ…



まだ変えてないんですか!


と、突っ込まれそうですが、
変えてないんですねぇ。


(念のためテレビ実家のテレビは変わってるのですが、わたしのテレビ…渡英前に使っていたやつです)


そこで
来る新生活に向けて、
テレビを買うのか否か。


の問題が、選択肢として上がって来ました。


以前であれば、何の疑問もなく購入したであろうテレビ。
買わない、という選択肢を持っていること自体、自分の情報消費パターンの変化を感じます。


ニュースに関しては、インターネットはもちろん、iPhoneで、
世界中の新聞社からテレビ局からネットメディアから、
そしてtwitterやfacebookを通じたネットワーク網で収集できるわけで、
特に、今回のエジプトの件にも顕著なように、
むしろ、知りたい情報が、テレビにはない、ということも多々あり。


知識や教養に期待できないのであれば
じゃあテレビは娯楽だ!と割り切って、
何か暇だなぁ、と、チャンネルを変えても、
見たい番組がひとつもない、ということも多々あり。
(ケーブルやスカパーなどの多チャンネルを契約していてすら! 
 もちろん、そういうときはCNNやBBCをつけっぱなしにしておく、
 という有益な放置プレイもありなのですが、
 同じネタを繰り返し放送している場合もあり、段々と耳も飽きて来ます…)


もちろん
テレビがお家にないことの不便についても考えてみる。

1) サッカーなどイベントの中継が見られない
2) 紅白歌合戦が見られない
3) 嵐ちゃんのフォローがリアルタイムで出来ない
4) は~ っと家に買って、ぽちっ とテレビの電源を入れるという行動ができない
5) CMが見られない
6) なんとなしに耳や目に入る情報がなくなる

代替案についても考えてみる。

1) スポーツバーに行く、テレビも持っている友人宅で観戦する
2) 年末は実家に帰る、NHKオンデマンドで購入する(「風情」はないけども)
3) リアルタイムが無理だとして…あの手この手で収集する方法は、あり…
4) ぽちっ と入れるのを、Macの電源或いはラジオの電源に変え、慣れる(「哀愁」はないけども)
5) マーケター的には、まだまだ注目したい!これは趣味的に残念。
  ただ、もちろん広告分析の対象は、ネット上にも溢れ、むしろ積極的移行すべき事象。
  単に、自分の趣味・興味の問題。興味がテレビCMからネット広告に移れば問題なし。
  時の必然か。


よくよく言われている通り、
テレビは、
必需品というよりは、娯楽ツールとして、
one of themになったということですね。

テレビの競合は、
他テレビ局とか、他テレビメーカーとかじゃなくって、
他のソフト制作社(者)になり、他のハード製作社(者)になり。
そして、他の「場」(居住を出た、外の世界)になり。

何だかそれをとても実感します。


ただ、(6)に関してだけ
何となくの不安が拭えない。


これもよく言われている、
ネット社会の、ムラ社会の、問題に変わりはないのですが。


自分の選択した情報だけで自分が満たされる自信が、
まだない。

或いは、
自分の指先だけで自分に必要な情報を集められる自信が、
まだない。

そして、
自分の選択した情報だけで物事を考えていいのか、
という根本的な問題意識。


何が社会なのか
何がわたしと繋がっているのか
他の人が興味を持つものについて知らなくていていいのかという意識。


自分の興味関心だけで生きて行くことが、正しいのか、正しくないのか。
或いは、
正しい正しくない、なんていう問題がナンセンスだとしても、
わたしという人間は、常に「他」を認識することを欲しているということ。


マスメディアのクオリティを、
どんなに悲観しても嘆いても、
例えばテレビから流れて来る「どうでもいい情報」に対して
ふーん、
と感じることから始まる、
強い問題意識とか、新しい関心とか、小さな喜びもときには、が、
あるという事実。


ネット上で、自ら雑音の中に飛び込む勇気が果たして芽生えるのか。

自らの意志と労力を持ってして。


これもやっぱり、ひとつの「自己責任」?
自己責任の時代が、こんなところにも…

テレビの無意識無労力感の功績たるや、すごいものがあるんだなぁと、
思ったりしながら、
やっぱりテレビは…
買わない選択肢が今のところ、85%。


それは、代替案のパワーが
すごい勢いで押し寄せているから、なのであります。


あとは単純に…資金力の問題が…ガーン
(テレビ買うなら、マルチチャンネル化しないと、やっぱり面白くないしなぁ。)


ところでこれ、国家メディアとしてのテレビ或いはマスメディアの問題、は、
「公共」は、どこへ行くのか。
という関心とか、階層とかネットワークとか
そういう事柄に、深く絡んでいて
とっても興味のあるテーマ。

個人的に、掘り下げたいテーマなのであります。

また、ぼちぼち、書いてみようと思います。
エジプトの民主化要求デモの様子
ミャンマーのスーチーさんの行動

世界一周している知らない人の思考

大統領のスケジュール

社長が企んでいること

12時間時差の街で暮らす友人の日常

改めて
twitterとか
facebookとか
つい数年前までは想像できなかった仕組みが、
そして
WiFiとか
Smartphoneとか
つい数年前までは想像できなかった技術が、
わたしたちの生き方=人が人と作用し合い
…支え合い、奪い合い、愛し合い、憎み合い…
のあり方に、確実な変化を及ぼしている。



このスピード感において
何を「予測」するかは殆ど不可能だと思う。


何に備えるか という考え方
何に対応するか という考え方も
普遍(不変)の心配事であるにしても
恐らくこれまでほどの意味を持たないと思う。


「予測」して「備え」て「対応する」なんてことは
まるで、すべての人間がすべき当然のこと、のように語られる傾向があるけれど
(とりわけ、就職活動を含む経済活動において)
甚だおこがましいことなんじゃないか?

ということ。


先日、
フェイスブック創設者の自伝的映画、
『ソーシャルネットワーク(The Social Network)』を見終わった時に、
ふと感じたのは、そんなこと。


だって


天才たちと、それを取り巻くビジネスパーソンたちが、
わたし(敢えて、「わたしたち」とは言いません…)の知らないところで
何かを大きく動かしている。



そのスピード感を、規模感を、
「予測」しようだなんて
わたしにそんなことができるはずもなく
例えそれが評論家であったとしても
一体、信じるに足る予測になるのだろうか。


いや、本質はもっと違うところにあって
つまり
天才や彼ら自身が
そもそも、自分たちの行動の行く末について、
平凡な「予測」なんて、していないということ。


そこにあるのは

「~したい」

という
彼ら自身のモチベーション。


映画の主役(そしてfacebook創設者の)ザッカーバーグ氏の言葉を借りれば、
coolなことをしたい、というモチベーション。


coolであるか否かという基準に
終わりはない。


同時期に、
ホリエモンさんの『人生論』読んでたら、
一文、ヒットした。


   私は、今の状況になることを「予想」していたのではなく、
   「希望」していた。


そこにあるのは
予測、予想ではなく、モチベーションであり、希望である。


その予定調和は
ある人の希望である限りにおいて、
終わることはない。


だから
世界は
そうやって
天才とか、
或いは天才じゃなくても、
何かを希望する人たちによって、
彼らの思い描く方向に動いている。



他人の脳みそや心の中を予測するなんてことは、きっと誰が見てもナンセンスだ。



しかもそれが、
「ぶっ飛んだ」脳みそや心を持っている他人である場合には殊更に。


予測しようなんて…
慣習的な行動や言動は、案外、ナンセンスだし、
できるとするならば、高度過ぎるのじゃないか。


とすれば
わたし(たち)にできるのは
きっと自分自身も想い描くこと、希望すること。



きっとシンプルに、ただそれだけ。



誰かの行動を予測して不安に陥るよりも
自分の希望する方向に
ただひたすらに歩いて行く
必要があれば障害となる物や支援してくれる物(者)を動かして行く。



これまで当然のように感じられて来た
「受け身」の考え方こそが、実はおこがましいのかもしれない、という事実に気付けば、
「自分の道」を探すことはなんて簡単で
人生はきっと、
どのように転んだとしても
自分に相応しいものになっていくのじゃないだろうか。

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