エジプトの民主化要求デモの様子
ミャンマーのスーチーさんの行動
世界一周している知らない人の思考
大統領のスケジュール
社長が企んでいること
12時間時差の街で暮らす友人の日常
改めて
twitterとか
facebookとか
つい数年前までは想像できなかった仕組みが、
そして
WiFiとか
Smartphoneとか
つい数年前までは想像できなかった技術が、
わたしたちの生き方=人が人と作用し合い
…支え合い、奪い合い、愛し合い、憎み合い…
のあり方に、確実な変化を及ぼしている。
このスピード感において
何を「予測」するかは殆ど不可能だと思う。
何に備えるか という考え方
何に対応するか という考え方も
普遍(不変)の心配事であるにしても
恐らくこれまでほどの意味を持たないと思う。
「予測」して「備え」て「対応する」なんてことは
まるで、すべての人間がすべき当然のこと、のように語られる傾向があるけれど
(とりわけ、就職活動を含む経済活動において)
甚だおこがましいことなんじゃないか?
ということ。
先日、
フェイスブック創設者の自伝的映画、
『ソーシャルネットワーク(The Social Network)』を見終わった時に、
ふと感じたのは、そんなこと。
だって
天才たちと、それを取り巻くビジネスパーソンたちが、
わたし(敢えて、「わたしたち」とは言いません…)の知らないところで
何かを大きく動かしている。
そのスピード感を、規模感を、
「予測」しようだなんて
わたしにそんなことができるはずもなく
例えそれが評論家であったとしても
一体、信じるに足る予測になるのだろうか。
いや、本質はもっと違うところにあって
つまり
天才や彼ら自身が
そもそも、自分たちの行動の行く末について、
平凡な「予測」なんて、していないということ。
そこにあるのは
「~したい」
という
彼ら自身のモチベーション。
映画の主役(そしてfacebook創設者の)ザッカーバーグ氏の言葉を借りれば、
coolなことをしたい、というモチベーション。
coolであるか否かという基準に
終わりはない。
同時期に、
ホリエモンさんの『人生論』読んでたら、
一文、ヒットした。
私は、今の状況になることを「予想」していたのではなく、
「希望」していた。
そこにあるのは
予測、予想ではなく、モチベーションであり、希望である。
その予定調和は
ある人の希望である限りにおいて、
終わることはない。
だから
世界は
そうやって
天才とか、
或いは天才じゃなくても、
何かを希望する人たちによって、
彼らの思い描く方向に動いている。
他人の脳みそや心の中を予測するなんてことは、きっと誰が見てもナンセンスだ。
しかもそれが、
「ぶっ飛んだ」脳みそや心を持っている他人である場合には殊更に。
予測しようなんて…
慣習的な行動や言動は、案外、ナンセンスだし、
できるとするならば、高度過ぎるのじゃないか。
とすれば
わたし(たち)にできるのは
きっと自分自身も想い描くこと、希望すること。
きっとシンプルに、ただそれだけ。
誰かの行動を予測して不安に陥るよりも
自分の希望する方向に
ただひたすらに歩いて行く
必要があれば障害となる物や支援してくれる物(者)を動かして行く。
これまで当然のように感じられて来た
「受け身」の考え方こそが、実はおこがましいのかもしれない、という事実に気付けば、
「自分の道」を探すことはなんて簡単で
人生はきっと、
どのように転んだとしても
自分に相応しいものになっていくのじゃないだろうか。
「人生論」 (ロング新書)/堀江 貴文
¥840
Amazon.co.jp
ミャンマーのスーチーさんの行動
世界一周している知らない人の思考
大統領のスケジュール
社長が企んでいること
12時間時差の街で暮らす友人の日常
改めて
twitterとか
facebookとか
つい数年前までは想像できなかった仕組みが、
そして
WiFiとか
Smartphoneとか
つい数年前までは想像できなかった技術が、
わたしたちの生き方=人が人と作用し合い
…支え合い、奪い合い、愛し合い、憎み合い…
のあり方に、確実な変化を及ぼしている。
このスピード感において
何を「予測」するかは殆ど不可能だと思う。
何に備えるか という考え方
何に対応するか という考え方も
普遍(不変)の心配事であるにしても
恐らくこれまでほどの意味を持たないと思う。
「予測」して「備え」て「対応する」なんてことは
まるで、すべての人間がすべき当然のこと、のように語られる傾向があるけれど
(とりわけ、就職活動を含む経済活動において)
甚だおこがましいことなんじゃないか?
ということ。
先日、
フェイスブック創設者の自伝的映画、
『ソーシャルネットワーク(The Social Network)』を見終わった時に、
ふと感じたのは、そんなこと。
だって
天才たちと、それを取り巻くビジネスパーソンたちが、
わたし(敢えて、「わたしたち」とは言いません…)の知らないところで
何かを大きく動かしている。
そのスピード感を、規模感を、
「予測」しようだなんて
わたしにそんなことができるはずもなく
例えそれが評論家であったとしても
一体、信じるに足る予測になるのだろうか。
いや、本質はもっと違うところにあって
つまり
天才や彼ら自身が
そもそも、自分たちの行動の行く末について、
平凡な「予測」なんて、していないということ。
そこにあるのは
「~したい」
という
彼ら自身のモチベーション。
映画の主役(そしてfacebook創設者の)ザッカーバーグ氏の言葉を借りれば、
coolなことをしたい、というモチベーション。
coolであるか否かという基準に
終わりはない。
同時期に、
ホリエモンさんの『人生論』読んでたら、
一文、ヒットした。
私は、今の状況になることを「予想」していたのではなく、
「希望」していた。
そこにあるのは
予測、予想ではなく、モチベーションであり、希望である。
その予定調和は
ある人の希望である限りにおいて、
終わることはない。
だから
世界は
そうやって
天才とか、
或いは天才じゃなくても、
何かを希望する人たちによって、
彼らの思い描く方向に動いている。
他人の脳みそや心の中を予測するなんてことは、きっと誰が見てもナンセンスだ。
しかもそれが、
「ぶっ飛んだ」脳みそや心を持っている他人である場合には殊更に。
予測しようなんて…
慣習的な行動や言動は、案外、ナンセンスだし、
できるとするならば、高度過ぎるのじゃないか。
とすれば
わたし(たち)にできるのは
きっと自分自身も想い描くこと、希望すること。
きっとシンプルに、ただそれだけ。
誰かの行動を予測して不安に陥るよりも
自分の希望する方向に
ただひたすらに歩いて行く
必要があれば障害となる物や支援してくれる物(者)を動かして行く。
これまで当然のように感じられて来た
「受け身」の考え方こそが、実はおこがましいのかもしれない、という事実に気付けば、
「自分の道」を探すことはなんて簡単で
人生はきっと、
どのように転んだとしても
自分に相応しいものになっていくのじゃないだろうか。
「人生論」 (ロング新書)/堀江 貴文
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