勤労月間(?)宣言をしたので またまた仕事の話。


わたしの仕事は
人に触れるけれど それは人の心に触れる仕事であって
物理的には、触れない。

多分

正面に座っているネゴシエーションの相手には 
かなりの確率で触れないし
(ある種の「作戦」としてはありうるかもしれないが)

グルインの相手にも 調査対象の相手にも
営業に来る人にも 営業に行く人にも
「消費者」と呼ばれる人にも
「クライアント」と呼ばれる人にも
物理的には、触れない。


一方で


人に、直に触れる仕事って、ある。


それって、どんな気持ちなんだろうって、思う。


この間、かなり久しぶりに、いわゆるリラクゼーションを受けに行って、
頭から足先まで
見ず知らずのお姉さんに もみもみさわさわされたわけですが
あ、なんかそれ痛いとか 気持ちいいとか 息苦しいとか
直接的なコミュニケーションの敏感さを思って
わたしにはこういうの無理、というか、
見ず知らずの他人の体に物理的に触れることが許容されている
多分に「境界線」を超えた仕事、社会的には、
案外と特殊な立場について、
それって
意外と気軽じゃないんじゃないか、っていう、
不思議な気持ちになり、
自分の職業の選択肢にこういうのなかったなって思って
他人に物理的に触れる、
その境界破りな感じの仕事って、
一体どんな仕事なのかなって、すごく興味を持ってしまった。


体の形は人によって違うし
体温も 質感も
そして多分に、「気」が違う。


そういうのを
手から吸い取ってるんだろうか。


どのくらいの衝撃でもって、吸い取ってるんだろうか。
受け止めてるんだろうか。
消費しているのかな、消化しているのかな、
それとも逆に、吸い取られてるんだろうか。
人身御供的な?
ドラキュラ的な?


リラクゼーション系に携わっているお姉さんたちって、
わたしの経験からいくと 結構細めの方々が多くって、
何だか
人の痛みや苦労を その体に受け止めて 
ほっそりしてしまっているような
儚げな印象があったりして


人の心と心でしか触れない仕事も
かなり相当にぐったりして
本日わたしはかなりにぐったりして帰って来たわけだけど
物理的に触れる仕事って…どうなんだろう



思った。


お医者さんでも、体に触れないで診察する人も多い。


カルテ見て
さささと聴診器当てて
目も合わせないで。


そういう意味でいくと
リラクゼーションとかマッサージとか
美容院もそれに含まれるかもしれないし
(…何だかこの話は、いわゆる性産業とかにも繋がりそうな勢いを感じる…
社会学部的には…)
何だか現代に多いこれらの「スキンシップ」的産業は
やっぱり何かを吸い取ってるんじゃないかと思ったりして


そういう仕事に就こうと思う人の
モチベーションや 使命感に
興味をもっているわけなのです。


なかなかその先に繋がらなそうな話だけど
興味をもっているわけなのです。


そういうこと考えながら
寝転がるクライアント=わたし は ちょっと嫌かな?
わたしの肌を通して
お姉さんとコミュニケーション、してるんだろうか。
感じ取られてるんだろうか、わたしの興味も?
先週、仕事で、御歳86歳の経営者の方と話す機会があって、
朝一番で、わたしたちのところに立ち寄ってくださった後、
あちらに行って、こちらに行って、と、ハードなスケジュール。

お元気で活躍されてらっしゃいますね、
という話に、

「わたしはもう、時を刻んでいるんでね」

と。


毎朝起きて 今日という一日に何ができるのかを、考えていると。
若い人には、分からないでしょうな、と。


それで、対極にあるのが、「時に流される」でしょうね、という話になって。


流されるほどの時が、手元に残っているのか、残っていないかの、
自分にしか分からないその感覚を頼りに生きること。


ところで


その方に比べれば わたしは多分に流されているけれど
この週末だって
どれだけ無為に過ごしたかは分からないけれど
それでも
時を刻む感覚が、ないわけではない。


最初の会社も、3年だって決めていたから、その残された時間への実感値
留学しようって決めた瞬間から、その時が来るまでの限られた時間への実感値
13ヵ月という留学期間、タイムリミットへの実感値
とか。


何となく、「タイムリミット」を意識することの多い時を、過ごして来たような。


残された時間を思えば思うほど
自ずと
そこで何をやりたいのか、やるべきなのか、
はっきりとして来る。


ジタバタしたり
時に諦めたり
しかし 瞬発力を持って。


タリーズコーヒージャパンを設立した松田公太さんの著書に、
彼は、
「自分が死ぬであろう年齢をとりあえず定めて、それに向かって、
5年ごとの人生計画をノートに書き出している」
というようなことを実践していると書いてあって、
そうしたら一気に、明日は死ぬな、って思って、怖くなって、
だってその、5行のスペースを何回繰り返したら,
例えば、70歳とか75歳とか80歳とかになっちゃうの?っていう話で、
そのリピート回数は、限りなく、一桁なわけで。


それは、とてもストイックな生き方だ。


「人生は長距離走だ」(だから、ゆっくり、マイペースで)
なんていう言葉も耳にするけれど、
マラソン選手の走るそのスピードは、
かなり、速い。


留学時期まで一気に駆け抜けた20代を思えば、
最近は、あんまり区切りを持って、生きてない。

(例えば、出産、とかいう”タイムリミット”は、30代女子的には
かなり切実な問題だけれど、
一方で、自分の意志だけでどうにもなるものでもないという意味で、
わたしはこれに対して、若干の古典的観念を持っている)

ぼんやりな時期が、ふと存在してきて、
あくせく、に、体と心がついていけない時期もあるということは、
多分に、
今86歳の人と比べたら、
まだまだ半分も生きていないわたしの、「若さ」の中で許される範囲、
なのかもしれない。


そう、人生は長距離走…を、こういうときに、慰みに持って来たり。


ただ、
ときには流されつつ
でも大局では
「刻む生き方」をする方が、
きっと、「誰かに刻まれる”生”」なるんだろうなと、
感じているのも確か。


時間は平等に与えられているのですから。





この週末は


刻む人を思いながら
わたしは
流されてぼんやりと、過ごしたのですけれども。
今月は、勤労感謝の日もあることなので
お仕事をテーマにしたブログを書いてみようと思う。

(単純に、先々の祝日=休日をチェックしてたまでのこと…
 今月は、有休予定もあるし、お休みがあって、嬉しい!!)


というか

仕事のことを考えている、日々考えている。

仕事のことというよりは、組織のことかもしれない。

仕事環境というか。


何しろ3社目なので、いろいろと感じるところがある。


それで、最初に勤めた会社の何がすごかったかということを考えた。
(今はどうか、知らないですけど。わたしが居た頃の、感じとして。)


人がキラキラしていること。
目とか、表情とか。

元気。活発。

前向き。

諦めない。粘り強い。

感情の爆発。怒り。笑い。涙。喜び。


そういうのを思い浮かべると、つまり組織的に、非常に若いというか、
そう、若い、ということ。


何が最も特徴的かと、今思い返して気付くことは、
「多くの人が夢を持っていたこと」
と、いうこと。


「将来の夢」。


「わたしの、将来の夢は…」と語ること、語れることが、普通の環境だったということ。


大体、将来の夢を語るのは、子どもの仕事。

大人になって、仕事に就くと、大体それがひとつの終着点になって
キャリアとしては、その終着点が始まりになるわけだけれども
(社会人として、とか、或いは、社内キャリアとして)
最初に居た会社の場合は、そもそも終着点でもなければ始まりという意識もなく、
あくまで人生の通過点であって
というか常に人生は通過して行くものであって
成長して行くこと、「次」へ進むことへの、あくなき欲求があって
それが、何とも言えずナチュラルに、文化として風土として存在していたというか。


中に居るときは、それが特異だとは気付かなかったけれど、
外に出てみると、大人になっても、「将来の夢」を持っているということが、
意外と普通じゃないことに、気付いてしまったわけで。


上司と部下との1on1で、
「(社内キャリアを抜きにした)”将来の夢”に向けて、今不足しているのは何だ」
みたいなセッションをするのって、そうそうあるものじゃ、ないでしょう。


だからみんな、萎れてなかったんだなー、って、思う。


錆びないというか。


ふと思い出した、そういう人がたくさんいた仕事環境を。


わたしは、多分そのDNAを引っ張って、あちこち旅していると思いたい。

その「錆びない空気」を背負って、
孤軍奮闘、
時に挫けそうになるけれど、故郷の空気を思い出すような、
そんな気分の、
孤軍奮闘。