「きちんと」って言葉 日本語でよく使うよなぁ と思います。

「きちんとしなさい」とか言われて育ったような、子どもの頃。
英語とか他の言語で直訳しようとすると なんかしっくりくる言葉がない気がする。
わたしの外国語能力が乏しいから、かもしれませんが。

それはさておき

「きちんと暮らす」

っていうのが、
忙しい日々の中では実は結構大変で
かつ
それがもたらす満足感が、何よりも心を安定させる要素であったり
しますよね。

外食でなく うちご飯(お手製弁当含む)で過ごせた日が多かった週とか

台所のシンク回りとか
洗濯機をきれいに拭くとか(くず取りの網の目を綺麗にするとか)
カーテン洗うとか
そういう細かな掃除ができたときとか

以前ならば、
忙しさに比例してサラリーがいいこともあって 
そういうのはお金で解決する、っていう選択肢もあったわけで
実際そういうのを利用している人もいらっしゃったわけですが

(ダスキンお掃除隊を使うの、憧れだわ)

今のわたしの「稼ぎ」では
忙しさに…関わらず、サラリーはさらさらですから(親父ギャグではない)
自分の手足を動かすしかない

実際
子育てしてる人とか 介護してる人とか
そういう労働人に比べれば
わたしなんて 自分をどうにかすれば良い話なので
本来余裕しゃくしゃくのはずなのですが
(そういう人たち、本当に尊敬してます…働きながら子育てする自信がない…)

なにぶん要領も悪いし 体力もないから
「きちんと」するのにはそれなりに時間もかかってしまったりして
気力が入り用になったりして

そういうわけで

本日は労働人の権利を公使して
有給休暇を頂戴しまして
晴天を利用して
毛布を洗ってみたりしまして(春が来てしばらく経ちますがね…)
暮らしの「きちんと」を整えて
日々の呼吸のベースづくり

そして
長い重い6月に備えようという
ある種、個人的キックオフデイ。
(毎年6月は心身ともに具合が悪くなりますね…多分、梅雨時期なうえに、
祝日が1日もなくてカレンダーが長い!
誕生日とか記念日とか、そういうプライベートのめでたいイベントもないし…)

贅沢に、一日、いただきます。
朝のヨガも 夜のヨガも どっちもいいけど
休日のヨガも 平日のヨガも どっちもいいけど

凝り固まった気分が 一気に溶けて流れ出て
自分の脳みそに空気が入り そして巡るのを実感するのは
仕事帰りのヨガであり

かれこれ ヨガ歴8年目
だけれど
毎回毎回 気づきがあって
先生に同じことを言われても その時々で感じ方が違ったり
過去にスルーしてたことが ぴたっと留まるときがあったり 
あるとき留めたことが 次にはスルーしてみたり

今日 心に張り付いたのは

「自分の内に居る 神様、神様という自然、その流れを 見つめること」

神様が 人間の形をしていなくって、自然的なものであって
それが内に わたしの内にあるということ
そのことを捉え続けることで わたしはきっと大丈夫だということ

それは時に穏やかであり爽やかであり安らぎである一方で
手に負えないほどに雄大であり
そして、“人間の形をしたわたしには”抗えないもの。

そんな抗えないもの 渦巻きを 自分の中に内包していることの
神秘的な現実に向き合うこと。

コントロールなんてできない
ただ従う
でも共生する 自分自身と共生する

この解釈が あってるのかあってないのか
ヨガはそんなこと気にしないから
ただポーズをとって呼吸をしながら
その面白い内包関係について 

内包関係の 主体がいったいどちらなのかということについて
「外部的な感覚にいるわたし」は今、
「内部的な自然の中にいるわたし」とどういう風につながってるのかなって

なんだか 面白い感覚だなぁって

優しい自分も 荒々しい自分も
自分の中に居る神様とともにあると思えば
何だか急に スケールの大きな話を 小さく閉じ込めた贅沢感で
幸せな気持ちに変わる気が しませんか?

してくるような。

そんな神様とともに歩むことができれば
外部的な神様は 必要 ないのかな、本当は?

或いは、わたしにとって それが宗教のような 気も、する。

宗教の形の必要性が 人によって異なるということ なのかな。


内部的な神様 外部的な神様


でも、それってずっと 実は子どもの頃から感じてた感覚だったりする。
そのことを思い出してみたりする。
わたしの宗教について。
内側にいる わたしみたいな 自然的存在について。 


何だかきっと シナプス的には
今 ようやく文庫本を読み進めている『1Q84』で
愛が 宗教に代わって、「大丈夫」を確信に変えて行くような
そんなところに繋がって行ったんだと分析しながら


さてこれから
お風呂に入って
自分の内側の神様と
ちょっと対峙でも してみようと思います。
ひとつのものを探すのって 簡単そうで、難しい。

いや、多分に難しい。

例えば、
引っ越そうと思って 物件を当たっていると
それがよくよく分かって
バインダーに数冊も、何十件、何百件の物件が載っているけれど
いろいろな条件を当てはめて見て行くと
実際に気に入りそうなのは、2~3件しかなかったり
それで実際に見に行くと、まったく気に入らなかったり。

近所を散歩したりジョギングしたりしていると
こんなにお家が建っているのに、なぁ。
と、
供給の数の多少の問題ではないのだと 
それには 感性の問題や経験の問題や それからタイミング
そういったものが掛け合わさって
無限の難しさを創り出しているのだ。

昔、数学でやった、確率問題、の
現実的な当てはめ方の、話。

「大丈夫、兎に角ひとつ見つかればいいんだから」

と、暢気に人は言ったが
そのひとつが見つからないから
わたしたちは無限の海の中で 苦悩するのだ。


就職先を選ぶのもそうだし
恋人を選ぶのだって
結婚相手を選ぶのだって
きっと同じこと


気に入らなかったら 明日取り替えればいいような
Tシャツや歯ブラシを選ぶのとは 違う。


感性の問題や経験の問題や それからタイミング。


出会うべくして出会い
選ぶべきして選ぶ


無限の確率論のお話に
どうやって「条件付け」をして行くか(有限にして行くか)
という意味では
探しに行くことは大切なんだろう。

現実的に探しに行くこととか
過去に探しに行くこととか

でも結局は探しに出たその後には、
「見つかる」というその時を待つしかないのかもしれない。

「n通り」ありますよ、
で済むわけじゃない、数の問題じゃない、
「ひとつのもの」を選ぶという問題が含まれてる、
生きる未知、の、道。