朝のヨガも 夜のヨガも どっちもいいけど
休日のヨガも 平日のヨガも どっちもいいけど

凝り固まった気分が 一気に溶けて流れ出て
自分の脳みそに空気が入り そして巡るのを実感するのは
仕事帰りのヨガであり

かれこれ ヨガ歴8年目
だけれど
毎回毎回 気づきがあって
先生に同じことを言われても その時々で感じ方が違ったり
過去にスルーしてたことが ぴたっと留まるときがあったり 
あるとき留めたことが 次にはスルーしてみたり

今日 心に張り付いたのは

「自分の内に居る 神様、神様という自然、その流れを 見つめること」

神様が 人間の形をしていなくって、自然的なものであって
それが内に わたしの内にあるということ
そのことを捉え続けることで わたしはきっと大丈夫だということ

それは時に穏やかであり爽やかであり安らぎである一方で
手に負えないほどに雄大であり
そして、“人間の形をしたわたしには”抗えないもの。

そんな抗えないもの 渦巻きを 自分の中に内包していることの
神秘的な現実に向き合うこと。

コントロールなんてできない
ただ従う
でも共生する 自分自身と共生する

この解釈が あってるのかあってないのか
ヨガはそんなこと気にしないから
ただポーズをとって呼吸をしながら
その面白い内包関係について 

内包関係の 主体がいったいどちらなのかということについて
「外部的な感覚にいるわたし」は今、
「内部的な自然の中にいるわたし」とどういう風につながってるのかなって

なんだか 面白い感覚だなぁって

優しい自分も 荒々しい自分も
自分の中に居る神様とともにあると思えば
何だか急に スケールの大きな話を 小さく閉じ込めた贅沢感で
幸せな気持ちに変わる気が しませんか?

してくるような。

そんな神様とともに歩むことができれば
外部的な神様は 必要 ないのかな、本当は?

或いは、わたしにとって それが宗教のような 気も、する。

宗教の形の必要性が 人によって異なるということ なのかな。


内部的な神様 外部的な神様


でも、それってずっと 実は子どもの頃から感じてた感覚だったりする。
そのことを思い出してみたりする。
わたしの宗教について。
内側にいる わたしみたいな 自然的存在について。 


何だかきっと シナプス的には
今 ようやく文庫本を読み進めている『1Q84』で
愛が 宗教に代わって、「大丈夫」を確信に変えて行くような
そんなところに繋がって行ったんだと分析しながら


さてこれから
お風呂に入って
自分の内側の神様と
ちょっと対峙でも してみようと思います。