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終戦の日だということは、
日付が変わったときから気づいていて、
でも、生活のあれこれの中で、
うつらうつら。

ある種の団体の車が通り過ぎて、
彼らの意味とか、
わたしの意味とか、
考える。

いや、意味なんて、
大してあったものじゃない。

ただ、そのときから、
これだけの時間が経った、
という、ことなのだ。

こんな日の朝一番から仕事をする気にはなれず、
とりあえず先延ばしにして、
ひとり映画を観に行った。

友だちとは何か、
なんていうテーマのフランス映画。

パトリス・ルコント監督の、
地味な地道な、
人間の、
なんてことない日常の、
重大な、
人と人との、
つながりについて。

いわゆる、
近代社会の、
物質と孤独。

例えば、
「平和」な日常が、
危機にあるとわかったときの、
焦りについて。

朝10時の映画館は、
あまり人もなく、
そういえば、
こんな時間に映画館に来たのは、
初めてかもしれないと思いながら、
サンダルを脱いで、
静かな、静かな、映画館で、
静かに、スクリーンを、見つめる。

こんな、単純な豊かさがある、
夏の日が、
続いていきますように。

わたしにも、
あのひとにも、
あなたにも、
だれかにも。


わたしの血筋は東北地方、正確にいうと、青森県から来ており、
わたし自身、そこに住んだことは一度もないのですが、
やっぱり、おじいちゃんとかおばあちゃんとか、親戚のおばさんとか、
子どもの頃から、知らず知らず感じ取ってきたやさしい言語の響きというのがあり。

ヨーロッパ言語に近いと言われる(火曜日の「第九」の練習のときにも、先生が言ってたな)、
ちょっとこもった、日本語にしてみれば「中途半端な」響きが、
結構、癖になる、響きよ、これ。

単語レベルで理解できないことばがあって、
おばあちゃんと会話にならないときも、たまにあったりもしますが…

ふっ、と力が抜ける、
脱力系。
癒し系。
…ちょっと古いか。

ところで先日、「めざましテレビ」で、
松山ケンイチさんがインタビューでしゃべっているのを見て、聞いていて、
その独特のしゃべり方から、
この人は東北人に違いない、
と感じた。

ぼさーっとして、
ふわーっとして、
ビジュアルにも、しっくり来ていて、
それより何より、
あんまりテレビでああいう風に素でしゃべっている人、つまり、
東北地方のイントネーションを
残したままにしゃべっている人、見たことないぞー!と思って、
気になって調べてみたら、
やっぱり、
青森県むつ市出身なんですねぇ。

しゃべれはしないものの、
わたしのリスニング能力に間違いはなかったと、
改めて感動しました。

…というのは冗談で、
彼の、あのアンニュイな雰囲気が、
一瞬にして理解できた気がします。

青森県って、
自分も知らないことばかりなのですが、
とても不思議な雰囲気を持つ場所だと、常々思っています。

スピリチュアルといってしまうと、
なんだか安っぽいけれど。

白神山地とか恐山とか、そもそもそういうスポットもあるけれど、
八甲田山とか奥入瀬とか、
なんというか、
土のエネルギーがあるというか、
なんというか。

そんな中で、
人が、ぼーっと生きてる感じ。

ぼーっと、というのは、何も考えてないというんじゃなくて、
なんか、
そういう土に囲まれた中で、
気候のこともあるからか、
悶々と内にこもって、考えているというか。

内と外が、くっついたり、離れたり、しているような。
一体化して、境目がわからないような、
でも、孤立しているような。

結局、曖昧な、アンニュイな感じに、なっちゃうんだろな。

だから、
この夏、本屋さんに並ぶ太宰治のシリーズが、
松山ケンイチさんの表紙になっていて、
それが、
何ともいえず、しっくりくるなぁと、横目でずっと眺めていて、
その理由が、
一瞬にして解けた感じ。

太宰治も、
かの地の人、ですからね。

なんだか多分、
その土地に行ったことのない人には、
あまりわからない、「感覚的」なものなのだけれど、
アンニュイという言葉が、
言語の響きとも相まって、
これほど似合う土地も、
日本の中で、そうそうないと思ったり、しています。

思春期の頃から、
夏に、冬に、
おばあちゃんの家を訪ねるたびに、
そう感じていた、
わたしにとって、
身近なようで、身近ではないその土地と、
その土地が生み出す、人、
人を介して発せられるエネルギー。

そういった、不思議な魅力が、
何だか気になるのは、
隠しようのない、事実なのです。

きっと、
どこかが一本、つながっているから、なのでしょう。
ミュージカルWicked!のCDを聴いていて、
今日、なぜかこの歌詞が、ひっかかりました。

"We (you) deserve each other."

単純に言ってしまえば、
「わたしたち(あなたたち)お似合いだわ」
っていう、そういうフレーズなのでしょうが、
そういえば、
そういえば。

ある一組の男女、について、
こういう風に、
多少なりとも誇らしげな、憧れの含まれた響きをもって、
カップルとして成立している様子を、
会社生活が始まって以降、
あまり見たことがないし、話したことも、聞いたこともないな、と、
妙に新鮮に思い出したのでした。

例えば中学校のとき。

手の届かないような素敵な男の先輩が、
これまた美人な女の先輩とつきあってて、
全校生徒が、そのカップルを公認するような。

例えば高校のとき。

クラスの、ちょっと大人びた雰囲気を持ってる女の子が、
隣の男子校の、通学路で人気だった男の子とつきあっていて、
クラス中の子が、そのカップルをうらやむような。

例えば、『赤毛のアン』の、
アンとギルバードのような。

ポジティブな「お似合い」を、
自他ともに認めているような「お似合い」を、
このところ、感じたことの、ないような。

会社にだって、
社内恋愛とか社内結婚とかあふれているし、
或いは、
奥様とか旦那様に、直接的/間接的にお会いする機会も、知る機会も、あるのですが。

あまり、
「そそられない」のは、
それは、なんでかなー?と、考えてみたりします。

会社では、あまりにみんなが闘志を燃やしていたり、
政治に身を焦がしていたり、
或は、自分を隠していたりするから、
そもそも人そのものとして、憧れを抱きにくい…とか?

仕事の結果で、その人を見たりしているから、納得がいかなかったり、とか?

コンテクストの中に、自分とその人の関係を置いてしまいがちだから、
どうしても人格の前に損得勘定が絡んだりとか?

…書いてて悲しくなってきましたが、
とにかく、
「We (you) deserve each other」
って、
なんか誇らしげで、よい響きだなぁ、と思ったのです。

ただ、それだけ。

つまるところ、カップリングというのは、
最強のプライベート化であって、
わたしがどう思わなくても、
本人たちがそう思っていればいいのかもしれないし、
まわりがどう思っても、
わたしがそういう誇りを、持てればよいのかもしれないし。

でもなんだか、
やっぱり、
自分たちも、まわりも、
そのふたりに対するトキメキ、
みたいな、ある種の「スパイス」を持てた方が、
本当は面白いんじゃないかと、
楽しんじゃないかと、思ってみたりします。

そうしたらもっと、
オトナになっていくことに、
希望が持てるんじゃないかな、と思ってみたり、ねぇ?