うっかり結婚もせず、ずっと実家で母と兄と暮らしてきました。
母とはとても仲が良く、一緒に旅行へ行ったり、ショッピングをしたり、
親子だけでなく親友のような関係でもありました。
気が付けば、仕事に追われ最後の更新からずいぶんと経っていました。
母のことをつづっている記事も途中のままです。
ようやく少し、仕事が落ち着きつつあるのでまたちびちびと更新できればと思います。
もうすぐGWが終わります。
この時期は母が旅立って以降、心がざわつきます。
2021年のGWが明けた土曜、母の容態が一気に悪化して、階段を転げ落ちるように病状が進んでいったからです。
GWまでは、母に残された時間は少なくなってきているだろうけれど、それでもまだ穏やかな時間が続くと思っていました。
一緒にいられる時間が続くと思っていました。
でも、あっという間に、全速力で走り抜けるように、6月10日には旅立ってしまいました。
昨年転職してから仕事が残業ばかりで、日々のことに追われ、生活の中では今までどおり母に思いを寄せるし、母に話しかけているけれど、最近は涙をこぼすことは減っていました。
でも、こうしてブログを更新しようと、改めて当時のことを思い出すと、やっぱり涙がこぼれるものですね。
母のいない、3度目のGWでした。
大物の洗濯をしたり、窓掃除したり、きっと母が褒めていてくれるはずです
「お母さんいたときは、全然手伝いもしなかったのにね。ちゃんとやるようになったね」って
今年の私の誕生日に友人が「めぐさんがいたよ!」と言ってプレゼントしてくれた缶ビールで乾杯もしました。
友人よ、私今超絶太って、こんなすばらしいスタイルしてないよ…。フラメンコやってるって共通点しかないよ…。
発表会までにダイエットしないとです。
母がプレゼントしてくれた衣装がキツイ
とか言いつつ、発表会のための音合わせ(アーティストの方に来ていただいて、本番に踊る曲を振りに合わせて演奏していただきます)後、フラメンコ仲間で新しくオープンしたBBQスペースで乾杯!
千葉公園が色々リニューアルされて、近所も含め盛り上がってていい感じです
私たちもたまにフラメンコで賑やかししています
近所の保育園では、泳いでいるように鯉のぼりが飾られていました。
母がいたら「横向きに飾るんかい!」って、きっと一緒に突っ込んでたなぁ。
またちびちびと、母のことを綴ります。
途中で放っておくのはいけませんね。
切なくて、辛いこともあるけれど、母の最期までを残したいと思います。
母が旅立ってから、身近な人、好きな芸能人と旅立つ人が続いていました。
今日はBUCK-TICKのあっちゃんが旅立ったというニュース。
メジャーデビュー時、私は中学生で衝撃を受けて、大好きになりました。
以来、浮気しながら舞い戻るを繰り返し、2020年からまたすごく聴くようになっていて。
母を看病していた頃、母が旅立ってしまったとき、その後の喪失感でどうしようもないとき、転職してあまりの環境の変化でつぶれそうになってたとき、いつもBUCK-TICKを聴いてて。
もう、新たにあの魅力的な声や、魔王様ばりの存在感のある姿や、はにかむ可愛い笑顔を見聞きすることはできないんだなぁと。
すごく寂しく感じています。
でも、ぎりぎりまでステージに立って歌っていて、メンバーはもちろん、たくさんのファンに囲まれて…さすがだなとも。
今ごろは大好きなお母さまとISSAYさんと、積もり積もり話をしてるのかなと。
今井(あえて呼び捨てですみません)のメッセージ、すごく寂しさと切なさを感じたけど、同じくらいのあっちゃんへの愛を感じて。
すみません。
まとまらないけど、自分が好きな人が旅立ってしまうのは、やっぱり寂しくて切ないですね。
昨日、9月15日(金)は4年振りのデイサービスでの慰問公演でした。
コロナ禍になるまでは、何ヵ所禍の介護施設に毎年フラメンコの慰問公演に行っていました。
コロナのせいでしばらくできませんでしたが、今年からちらほらと復活しだしています。
そんなわけで昨日、久々におじいさまおばあさまたちのまえで踊ってきました
去年までは正直なところ、亡くなった母と同じくらいの年代の方や、もっと年上の方たちの前で踊るのは、切なくて辛くて無理…慰問公演が再開してもしばらくお休みさせてもらおうと思っていました。
でも今年、先生からお知らせをいただいたとき、自然と以前のように「参加します」と手をあげられました。
これも時間薬なのでしょうか。
実際に踊ってきて、皆さんが楽しんでくれる笑顔に、母もそこで一緒に笑ってくれているように感じて、ほんわかとした気持ちになりました
多分、見ていたんだと思います。
周りの笑顔のおじいさまおじいさまたちに「あの子、私の娘なのよ」って自慢しながら。
発表会のときも「近くの知らない人たちにうちの娘なのって言いたかった~!」とよく言っていました(笑)。
これからも母が自慢できるよう、慰問公演は参加し続けたいなと思えた1日でした
すっかり間があいてしまいました。
今年はようやく夏を満喫するように、忙しい8月を過ごしました。
フラメンコ仲間に感謝です。
いくつかの予定は母も一緒に連れていってあげたので、きっと母も楽しんでいたと思います
母が緊急入院になった日の続きを、書いていこうと思います。
駆けつけてくれた叔父家族と私たち家族で、病院の待合室の片隅で話していましたが、しばらくすると緩和外来の看護師さんに声をかけられました。
この日も放射線治療の予約が入っていたので、その受診のために私と兄が呼吸器内科に行っている間検温をしたところ、38度くらいの熱があると言われました。
恐らく肺腺がんの症状で発熱しているのであって、風邪やコロナということはないと思うとのことでした。
確かに母は自宅と病院しか移動していない日々でしたし、私もこの頃は基本的には母からほとんど離れず、離れざるを得ない時も今よりずっと全てに気を付けていたので、風邪すらひかないような生活でした。
ですがこの頃、病院は発熱している患者は予約を入れていてもその治療を受けることはできないとのことでした。
そして、入院することになったため、まずはPCR検査をして陰性であることを確認できるまでは、病棟に入ることもできないと言われました。
この頃、今よりずっとコロナは怖いものでしたから、それは致し方ないことだったと思います。
ただ、検査結果が出るまで一緒にいられるのかと思ったのですが、それも許可されなかったことだけは残念でした。
私だけでもずっとそばについていてあげたかった。
検査結果が出るまでは、他の検査結果待ちの患者さんもいる病室で1人で待機してもらうしかないとのことでした。
もちろんパーテーションなどで1人ずつベッドスペースは区切られているとの説明もありました。
私はコロナに感染するかもという心配はそれほどありませんでした。
ただ、寂しん坊の母を1人にさせることがイヤでした。
なんとか付き添わせてもらえないかと聞いてみましたが、ダメでした。
決まりなのであまり無理を言っても申し訳ないだけなので、あまり食い下がるようなことはできませんでした。
ただ、急な入院なので病棟に移ってからだったら、特別に30分だけ病室で面会してよいと言ってもらえました。
検査結果が出て病棟に移るのは、大体18時頃とのことで、私の携帯に電話をいただけることになりました。
母とは緩和ケア外来の診察室の前で、別れることになりました。
そこから看護師さんが連れて行くと。
「また後で来るからね」
そう母に声をかけると、母はうんうんと頷きました。
会話はできませんでした。
この日はマスクをすごく嫌がったので(きっと苦しかったのだと思います)、マスクを外した状態で看護師さんに車椅子を押されて行ったのだったかな…。
看護師さんには「よろしくお願いします」と母を託しました。
私は母の後ろ姿を見送るしかできませんでした。
残された兄と私に、叔父は「いったんどこかで食事をしよう。叔父さんがご馳走するよ。連絡がくるまで待とう」と声をかけてくれました。
病院のそばには特に何もないので、千葉駅まで行くことにしました。
従兄が大きな車で来てくれていたので、私たちも一緒に乗せて移動してくれることになりました。
今日は地元の花火大会でした。
幼い頃は自宅のすぐそばの海であげていたけれど、今は2つ隣の駅の海であげています。
砂浜が続いているので、母とはほぼ毎年地元の海に行って砂浜にレジャーシート敷いて見ていました。
自宅からビールと枝豆持参して(笑)。
昨年から花火大会が復活しましたが、昨年は横向き気味にあげるので会場以外では見られないとのことで諦めました。
今年は普通に上にあげると聞いて、母と行った海に行こうと思っていました。
思っていたけどいざ夜が近づいてきたら、きっと周りは楽しそうな家族や仲間のグループなんだろうな…と気付いて
母を連れて行くつもりだったけれど、結局は1人なんだよなぁ…と、寂しさと切なさで海に行くのはやめにしました。
その代わり、母と野球場の花火をよく見た、うちの階段の踊り場で母と花火を見ました
昨日の夕飯の後、母にスイカを出してあげてから、隣でウトウトしていました。
そうしたらふと、母が元気な頃と同じように、私の隣に座ってる気配がして目が覚めました。
もちろんそこに母の姿はなく。
夕飯の時だけ、いつものようにソファに移動している遺影があるだけでした。
でも、何となくそこに母がいるような気がして。
買い物しているときに梨を見つけて、母に「スイカと梨、どっちがいい?」と聞いたら「スイカ!」と言われた気がして買ってきたので、美味しく食べてくれてたのだと思います。
夕飯の肉じゃがも、昨日のは我ながら母の味になってるなぁと思ったので、誉めてくれる気持ちもあったのかも。
たまにこんな風に、母を感じられるととても嬉しいです
11時30分頃、病院へ行くため介護タクシーに乗るべく、家を出ました。
前日も階段を下りるのすらきつくなってしまっていましたが、前日は介護タクシーの運転手さんが手を貸してくれれば、母は自分の足で歩いてタクシーに乗ることができました。
でもこの日は、兄と私のサポートでなんとか1階まで下りることはできたものの、残り10歩分もないタクシーまでの距離がもう歩けませんでした。
運転手さんが「車椅子あるよ」と車椅子を出してくれたので、車椅子に乗った状態でようやくタクシーに乗ることができました。
車椅子に乗せたままバックドアからタクシーに乗せる様子を見ながら、兄と私は必要以上に面白がっていました。
「ロボットアニメみたい!」
「サンダーバードっぽい!」
「かっこいい!」
そんなことを2人で言って盛り上がりました。
私たちが暗い気持ちになっちゃいけない、私の不安を母に感じさせちゃいけない、いつもの明るい我が家らしく…そんな気持ちがそうさせていたのかもしれません。
病院へ向かう間、母はとても静かでした。
この日だけではなく、タクシーで通院するようになってからは車中であまり会話はありませんでした。
電車やバスで通院しているときは、いつもあれこれ楽しく話していたのですが。
もう話すのもしんどかったのだと思います。
病院へ着くと、緩和ケア外来へ向かいました。
朝、訪問看護に来てくださった看護師さんがあらかじめ連絡してくださっていたので、それほど待たなかったように思います。
それとも、時間の感覚があまりなくて、待ったかどうかすら覚えていないのかもしれません。
緩和ケア外来の主治医の先生に、母の体力的に通院は難しそうなので、残り2回の放射線治療は入院して受けたいことを伝えました。
先生は母の様子を見て、快諾してくれました。
いつでも入院できるよう、呼吸器内科の主治医の先生と連携をとっていてくれたようです。
緩和病棟に入るには事前に面談を行う必要があるのですが、面談予約はまだ少し先の日程でした。
先生から面談日程を早めるようにしましょうと提案され、調整をお願いしました。
また、今回の入院は緩和病棟へは入れないので、通常の呼吸器内科医の病棟に入院になる説明を受けました。
その説明の際に「もしかすると…ということもあり得るので、個室に入院してほしい」と言われました。
不思議とショックを受けることもなく、そうしてくださいと冷静に返事をすることができました。
ただ、もう5月以降は先生や看護師さんたちと話していると涙がこぼれてしまう状態だったので、泣きながらではありましたが。
在宅診療の話も急いで進めてもらえるよう、お願いをしました。
その後、私と兄だけが呼吸器内科の診察室に呼ばれました。
何の説明を受けたのか、今はもう覚えていません。
恐らく、入院についての説明だったのだと思います。
あとは、呼吸器内科の先生も看護師さんも、私のことをとても心配してくださっていたので、私の心のケアも考えてくださったのかもしれません。
呼吸器内科での話を終え、緩和ケア外来に1人残してきた母のもとへ戻ると、診察室の前に母と駆けつけてくれた叔父、その奥様と息子である従兄がいました。
15時にはなっていなかったと思います。
まだコロナ禍でしたので、本当はごく少ない付き添いまでしか院内には入ってはいけなかったのですが、看護師さんもそっと黙認してくださいました。
待合室の一角で、母に叔父や奥様が話しかけてくれました。
母もちゃんと誰が来てくれたか分かっていて、「うんうん」と頷いていました。
叔父は私に「ありがとう」と言いました。
自分の姉である母を看てくれていることへのお礼の言葉でした。
でも私は、お礼を言われるようなことではなく、私がしたいからしている…そんな気持ちで、お礼を言われることがなんとなく不思議に感じていました。