9月12日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

マラソンの日(続き)。
日本において、オリンピックでもマラソンは、常に注目競技の上位となってきた。日本が初めて選手を派遣した、1912(明治45)年のストックホルムオリンピック(第5回オリンピック競技大会)からマラソン選手(金栗四三)を送っている。1964(昭和39)年の東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)で円谷幸吉が3位銅メダル、続く1968(昭和43)年のメキシコオリンピック(第19回オリンピック競技大会)で君原健二が2位銀メダルになる等、日本の男子マラソンは世界最高記録保持者を輩出したり、知名度の高いレースで優勝・上位入賞したりする時代があった。1970年代後半から1990年代前半にかけても、宗茂、宗猛、瀬古利彦、伊藤国光、中山竹通、谷口浩美等、マラソン世界歴代10傑に名前を刻む世界的な選手を数多く輩出し、1991(平成3)年の東京世界陸上では、谷口浩美が1位金メダル、1992(平成4)年のバルセロナオリンピック(第25回オリンピック競技大会)では森下広一が2位銀メダルに輝き、マラソン黄金時代を築いた。また、女子マラソンにおいても、1990年代前半から2000年代前半にかけて、オリンピックでは1992(平成4)年のバルセロナオリンピック(第25回オリンピック競技大会)で2位銀メダル、1996(平成8)年のアトランタオリンピック(第26回オリンピック競技大会)で3位銅メダルと連続メダルの有森裕子、2000(平成12)年のシドニーオリンピック(第27回オリンピック競技大会)で1位金メダルの高橋尚子、2004(平成16)年のアテネオリンピック(第28回オリンピック競技大会)で1位金メダルの野口みずき、また、世界陸上競技選手権では1993(平成5)年シュトゥットガルト世界陸上で1位金メダルの浅利純子、1997(平成9)年)アテネ世界陸上で1位金メダルの鈴木博美、他にも銀メダル銅メダルは多数という、女子マラソン選手が世界的な競技大会(オリンピックや世界陸上競技選手権等)でメダルを量産する活躍を見せ、全盛時代を築いた。当時の日本で取組まれていた夏マラソン研究は世界最先端であり、1990年代前半以降のオリンピックや世界陸上競技選手権での日本人選手のメダル獲得は、その研究の賜物であるのも否定できない。2000年代に入ると、ワールドマラソンメジャーズ(WMM)のシリーズ戦が創立され、従来オリンピックや世界陸上競技選手権等で争われてきた世界一のタイトルが、毎年の主要大会のポイントによっても争われるようになり、エチオピアやケニア等のマラソン強豪国の多くの選手が、今までよりもマラソンに大挙参加し、従来よりもマラソンに力を入れるようになってきた。それに伴なうマラソン強豪国の選手達によるマラソンの高速化、選手層の厚さによるレースのハイレベル化に、日本勢は十分対応できず、男女共に苦戦を強いられている。2020(令和2)年の「東京オリンピック(第32回オリンピック競技大会)」開催決定を受け、日本代表選考を改革し、その選考レースを「マラソングランドチャンピオンシップ」と命名して、2019(平成31)年に開催することが発表された。2021(令和3)年からは、国内外主要大会を纏めたジャパンマラソンチャンピオンシップシリーズを新設。また、びわ湖毎日マラソンは後発の大阪マラソンに統合、2021(令和3)年には歴史ある福岡国際マラソンも廃止され、男子ではエリートマラソン大会が消滅し、海外と同様に、東京マラソン、大阪マラソンといった、エリートランナーと市民ランナーが共に走る大会が主体となる。フルマラソンを3時間以内に完走することを「サブスリー」、フルマラソンを4時間以内に完走することを「サブフォー」、フルマラソンを2時間8分以内に完走することを「サブエイト」という。世界的には男女共に苦戦を強いられている日本勢であるが、アジアに限れば、男子では2時間06分16秒の記録をもつ高岡寿成、女子では2時間19分12秒の記録をもつ野口みずきが、アジアでの歴代1位記録となっており、アジア歴代10傑にも、男子・女子共に7名がランクインしており、日本はアジア屈指のマラソン大国となっている。国際陸上競技連盟(国際陸連、IAAF)は2008(平成20)年、マラソン等の世界のロードレースを、連盟として格付けする制度(ゴールド・シルバー・ブロンズの3段階で格付けする制度)を導入した。日本国内の大会では、2009(平成21)年からびわ湖毎日マラソン、2010(平成22)年から東京マラソン、2011(平成23)年から福岡国際マラソン、2013(平成25)年から名古屋ウィメンズマラソンが、ゴールドラベルに指定されている。日本国内の陸上競技を統括する日本陸上競技連盟(日本陸連、JAAF)が主催/後援するマラソン大会には、2007(平成19)年創設の東京マラソン(2013[平成25]年大会からワールドマラソンメジャーズ[世界の主要マラソン大会で、ポイント制で行なわれる陸上競技シリーズ]に加入し、世界の主要なマラソン大会の1つとなった)の定員35,500名、2011(平成23)年創設の大阪マラソンの定員30,000名を始め、定員10,000名を超える大会が複数あり、市民マラソン大会でも、定員10,000名を超える大会は多数ある。なお、日本国内ではないが、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ホノルル市で開催されるホノルルマラソンも。日本人が15,000名から20,000名程度参加する、日本人にとって主要な市民マラソンの大会の1つとなっている。因みに、本競技でスタートしてからゴールするまでに最も長く掛かった記録は、日本の金栗四三が記録した、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3である。東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力し、日本に高地トレーニングを導入する等、日本マラソン界の発展に大きく寄与し、日本における「マラソンの父」と称される金栗四三は、1912(明治45)年に開催されたストックホルムオリンピック(第5回オリンピック競技大会)のマラソンに出場したが、レース途中に熱中症になり、昏睡状態に陥った。このため、マラソンコース付近にあった農家に保護されたが、意識が戻ったのは、翌日の朝であった。その後、金栗四三は棄権の申告をせずに帰国し、大会関係者も一連の事実を把握していなかったため、記録上は競技継続(競技中に失踪し行方不明)のまま、大会日程を終了した。時は流れ、スウェーデンの首都ストックホルム市が1967(昭和42)年に、オリンピック開催55周年を記念する式典を開催することになった。当時の記録を調査したオリンピック委員会は、出場した選手の内、金栗四三のみが、完走も棄権もしていない状態であることを発見した。このため委員会は、改めて棄権するか完走するよう、金栗四三に要請を行なった。金栗四三はストックホルムへ赴き、式典の中で当時のコース(実際には競技場内の100m、残りの距離を消化した扱い)を走ってゴールし、完走に半世紀以上という公式記録が残された。なお、その時、「日本の金栗がただ今ゴールイン。タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって、第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」というアナウンスがされ、金栗四三はこれに対し、「長い道のりでした。この間に孫が5人もできました」と、コメントを残している。金栗四三の功績を記念して、富士登山駅伝(静岡県御殿場市で開催される、富士山の麓と山頂を往復する駅伝)、及び、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)に「金栗四三杯」が創設されている。富士登山駅伝では、一般の部の優勝チームに対して、金栗四三杯が贈呈されている。また、箱根駅伝では、2004(平成16)年より、最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されている。この他、「金栗記念選抜中・長距離熊本大会」や「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」のように、「金栗」の名を冠した大会もある。