マラソンの日。
紀元前450(孝昭天皇26)年9月12日、ペルシャ(中東・西アジアに位置する、現在のイラン)の大軍がアテナイ(ギリシャ共和国の首都アテネの古名で、古代ギリシャの都市国家の1つ)を襲い、マラトン(ギリシャ南部、アテネの北東にある村)に上陸したが、アテナイの名将ミルティアデスの奇策でこれを撃退し、フェイディッピデスという兵士が伝令となって、アテネの城門まで走り着き、アテナイの勝利を告げたまま絶命したと言われる日。但し、この話が史実かという点については諸説がある。この故事を偲んだフランスの言語学者ミシェル・ブレアルの提案により、1896(明治29)年にアテネで開かれたアテネオリンピック(第1回オリンピック競技大会)で、マラトンからアテネにあるパナシナイコ競技場までの競走が加えられた。これが、マラソン競走の始まりである。マラソンの距離は42.195kmと設定されているが、古代マラソンに直接由来するものではない。オリンピックでマラソン競技が実施された当初は、大会毎の競技距離は一定ではなく(同じコースを全選手が走ることが重要とされていたため)、約40kmで行なわれていた。競技距離が統一されたのは、1924(大正13)年のパリオリンピック(第8回オリンピック競技大会)以後であり、42.195km(26マイル385ヤード)とされた。この距離は、1908(明治41)年のロンドンオリンピック(第4回オリンピック競技大会)時の走行距離(市街地42km + 競技場の200mトラック1周弱)をそのまま採用したものである。当時は、サクス・コバーグ・ゴータ朝グレートブリテン・アイルランド連合王国初代国王、エドワード7世の時代で、その王妃であったアレクサンドラ・オブ・デンマークが自ら、「スタート地点は宮殿の庭で、ゴール地点は競技場のボックス席の前にと」注文を付けたことに由来している。当初、ウィンザー城(イギリスの首都ロンドンの西約34kmに位置し、テムズ川南岸に築かれたイギリスの君主の公邸の1つ)からシェファードブッシュ競技場(ロンドン西部、中心街から約8km離れたシェパーズ・ブッシュ地区に位置した競技場)の26マイル(約41.843km)をルートとしていたものの、アレクサンドラ・オブ・デンマークの注文により、半端な数字の距離(385ヤード[約0.352km])だけ延長され、それが現在まで続いている。以前は、約42kmの長丁場を考慮した、心理的駆引きと持久力が重要であった。しかし、近年は、男子女子共に高速化が目覚ましく、スピードも求められるようになってきた。これに伴ない、ペースメーカー(高水準、かつ均等なペースでレースや特定の選手を引っ張る役目の走者)を利用したスリップストリーム(プロペラを使用する航空機の後方に発生する、後方に向いた螺旋状の空気流、又は高速走行する物体の直後に発生する現象で、スポーツ競技において、その現象を利用し直前を走行する人物・物体を抜き去る際に用いられる技術)や、同じ国やチームの選手で組んでラップの上げ下げを意図的に行ない、余裕のない選手やスピードの乏しい選手をふるい落としていく等、自転車ロードレースの様な動きも見られるようになった。そのため、近年では、5,000mや10,000mでのトップ競技者を中心とした高速化が、特に男子で顕著となっている。従来から、市民ランナーが参加できる大会も多く存在している。2007(平成19)年から、東京マラソンが日本陸連公認の大会としては初めて、市民ランナーにも開放され、3万人規模の大会として成功を収めている。なお、一般の大会に於いては、仮装ランナーも多数登場し大会を盛上げているが、スポーツとしての側面から、マラソンでの仮装には賛否両論がある。駅伝同様に公道を使用するので、交通規制が伴なう競技であるが、殆どの大会が往復コース(特に、公式記録樹立に関しては、コースの大半が同じであることを条件としている)であること、また、参加者が多いので競技時間が長く、駅伝以上に交通規制の時間が長くなる。それ故、タイムによる足切りによって(概ね5時間から6時間程度)参加者を絞り込んだり、コース中の数ヶ所に関門を設け、規定の時間内の通過できなかった場合には、続行不可能としたりすることによって、交通規制の時間を明確化している大会が多い。当日は、周辺の商売やイベント等、さらに近距離の移動等にも不便を強いられることは多い。それでも、僅か1日だけのイベントであるために比較的寛容に対処し、沿道での応援等で盛上げる市民も多い。公道を使用する際の難点として、完全な警備はほぼ不可能になることがある。2004(平成16)年のアテネオリンピック(第28回オリンピック競技大会)では、ブラジルのバンデルレイ・デ・リマ選手への妨害事件が起こったが、このような行為を完全に防ぐことは、公道を使用している限りほぼ不可能である。2013(平成25)年のボストンマラソン(アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州ボストンで開催される、近代オリンピックに次いで歴史の古いスポーツ大会の1つであるマラソン大会)では、ゴール付近で爆弾テロ事件が発生し、マラソン大会におけるテロ対策がクローズアップされた。日本初のマラソンは、1909(明治42)年3月21日に開催された「マラソン大競争」である。兵庫県神戸市兵庫区の湊川埋立地をスタートし、大阪市の西成大橋(現:淀川大橋[大阪市福島区海老江と西淀川区姫里を結ぶ、淀川に架かる国道2号の橋])にゴールするという距離約32kmの片道コースであった。兵庫県武庫郡鳴尾村(現在は兵庫県西宮市の南東部)の鳴尾競馬場(1907[明治40]年に竣工した、関西初の競馬場であったが、1943[昭和18]年に阪神間防衛の最前線となる飛行場、海軍鳴尾飛行場となり、第二次世界大戦終戦後はアメリカ軍が接収し、1952[昭和27]年までキャンプ基地として使用され、1960[昭和35]年に敷地の一部が武庫川女子大学へ払下げられて、周辺は浜甲子園団地や西宮市立西宮東高等学校としても再開発された)で開催された予選会には408名が参加し、本大会は20名に絞り込まれて行なわれた。優勝者は、岡山県在郷軍人の金子長之助で、タイムは2時間10分54秒であった。コースによって条件が異なるマラソンは、陸上競技の国際的な統括団体で、競技規則を整備し、加盟団体の統括と世界的な競技大会の運営を担う国際陸上競技連盟(国際陸連、IAAF)が記録公認をしていなかったため、これまでの記録を上回っても、「新記録」ではなく「最高記録」と言われていたが、2004(平成16)年、国際陸上競技連盟(国際陸連、IAAF)は記録公認諸条件を整備し、マラソンを含む道路競技の記録も「新記録」と表現されるようになった。 従って、これまでマラソンの記録は「世界最高記録」「日本最高記録」等と称されてきたが、2004(平成16)年以降は、他の種目同様「世界記録」「日本記録」等と称されることになった。グロスタイムとは、スタートの合図を起算として、ゴールラインを通過するまでに要した計時の公式記録のことをいう。一方、ネットタイム(正味のタイム)とは、スタートラインを通過した瞬間を起算として、ゴールラインを通過するまでに要した参考記録のことをいう。多数のランナーが参加する市民マラソン等では、スタートの号砲と同時にスタートラインを通過できる人数は限定され、多数のランナーは、スタートラインに到達するまでにある程度の時間を要する。公式な記録であるグロスタイムには、このスタートラインに到達するまでの時間が含まれるため、正味の走行時間を把握する場合に、ネットタイムが用いられる場合がある。日本国内においては、ネットタイムはあくまでも、個人的な参考記録とされる。しかし、海外のマラソン、特に、ニューヨークシティマラソン、シカゴマラソン、パリマラソン等、伝統的に大規模なマラソンにおいては、グロスタイムとネットタイムの間に最大1時間以上の開きが出ること、同一ウェーブ内においても、グロスとネットの間に10分程度の差が出る不公平から、エリートランナーのみに於いてグロスタイムが正式タイムとなり、一般ウェーブスタートのランナーでは、ネットタイムが正式タイムとして公表され、順位もこれに基づいて発表されている。