9月12日 記念日 その5 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

国際南南協力デー(International Day for South-South Cooperation)。
2004(平成16)年の国際連合総会で制定された国際デーの1つ。1978(昭和53)年、南アメリカ南部に位置するアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスで開催された国際連合会議で、「ブエノスアイレス行動計画」が採択された。この国際デーは、南南協力の重要性について啓蒙し、南南問題を解決することを目的としている。「南北問題」が、先進国と開発途上国の間における経済格差の問題を指して使われることに対し、「南南問題」は、1980年代以降顕著になった、南側の開発途上国とされる国の間での経済格差の問題である。開発途上国の中でも、エネルギー等の資源保有国と非資源国との間には大きな経済格差が生じ、政治的・経済的な問題となっている。「南南協力」とは、「途上国相互の協力」のことで、開発途上国同士が、政治・経済・社会・環境・技術等の分野において、それぞれの得意分野で相互に協力するための枠組みである。
とっとり県民の日。
鳥取県が1998(平成10)年、「とっとり県民の日条例(平成10年6月26日鳥取県条例第13号)」によって制定し、9月12日に「とっとり県民の日」制定記念式典を開催した。1881(明治14)年9月12日、島根県から分離して鳥取県が再設置され、現在の鳥取県が誕生した。ふるさとについての理解と関心を深めると共に、ふるさとを愛する心を育てる日、としている。また、鳥取県や地域のことを考える日として、この日を中心に、県内各地で行事が開催される。鳥取県は、中国地方の日本海側、いわゆる山陰地方の東側を占め、西日本有数の豪雪地帯でもある。東西の長さは約125.41km、南北の長さは約61.79km、面積は約3507.13平方kmで、全国47都道府県中、面積が7番目に小さく、人口は最も少ない。県庁所在地は鳥取市で、全国の県庁所在地の中では、最も人口が少ない都市(約186,000人)となっている。全国のどの政令指定都市と比較しても、鳥取市の人口は少なく、政令指定都市以外で最大の、千葉県の船橋市(約646,000人)よりも少ない。また、市の数も最も少ない。小さな県であるため、県内総生産(名目)も47都道府県では最も小さく、世界の中では国内総生産(GDP)のランクが90位程度の国と同程度である。アメリカ合衆国北西部、ワシントン州シアトルを本拠とし、世界規模で展開するコーヒーのチェーン店『スターバックス』が未出店である唯一の県であったが、2015(平成27)年5月23日に、『スターバックス』の鳥取県1号店が鳥取市に開業した。これにより、『スターバックス』は47都道府県全てに店舗を構えることになった。「鳥取」の語は、記紀(『古事記』と『日本書紀』との総称)に見られる。日本最古の歴史書『古事記』では、大和朝廷が諸国に鳥を捕らえさせ、これを税として納めるように命じていた、という一節があり、当時、沼や沢の多い湿地帯であった鳥取平野で、水辺に集まる鳥等を捕らえて暮らしていた狩猟民族が、大和に政権ができてからその支配体系に組込まれ、「鳥取部」として従属するようになり、そこからこの地が「鳥取」と呼ばれるようになったとされる。日本に伝存する最古の正史『日本書紀』には、天皇の御子、誉津別(ほむつわけ)王は、30歳になっても言葉を話さなかった。ところがある日、空を飛んでいた鵠(くぐい、白鳥のこと) を見て「是何物ぞ」と、生まれて初めて言葉を発した。喜んだ天皇は、誰かその鳥を捕まえられないかと聞き、それに応じた天湯河板挙(あめのゆかわたな)が鳥を追い求め、ついに出雲の地(現在の島根県安来地方という説が有力)で捕らえ 皇子に献上した。すると、皇子が話せるようになったので、天皇は天湯河板挙の功績に報い、「鳥取造」という姓を与えると共に「鳥取部」 等を定めたとしている。また、平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』の因幡国(現在の鳥取県東部)邑美(おうみ)郡の五郷の1つに鳥取がある。1871(明治4)年の廃藩置県により、旧因幡国の8郡(岩井郡・邑美郡・法美郡・八上郡・八東郡・智頭郡・高草郡・気多郡)、旧伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)の6郡(河村郡・久米郡・八橋郡・汗入郡・会見郡・日野郡)、旧播磨国(現在の兵庫県南西部)の3郡(神東郡・神西郡・印南郡)の一部が鳥取県となる。1876(明治9)年8月21日には、鳥取県が島根県に併合され、鳥取に支庁が設置される。併合は、島根県令代理の布告で突然行なわれたため、以後、鳥取県分離運動が盛んになる。その後、1881(明治14)年9月12日に、島根県の内、旧因幡国の8郡、旧伯耆国の6郡が鳥取県として分立・再置され、現在の県域が定まった。鳥取県の交通は、概ね兵庫県境から島根県境までの海岸線に沿った旧山陰道のルートに沿って走る幹線(鉄道の山陰本線や国道9号線)が県内主要都市(若しくは、その付近)を通り、鳥取・米子・倉吉の各都市近辺から、中国山地・山陽方面へルートが分岐する構造になっている。島根県松江市内に松江道路(山陰自動車道の一部区間)が開通した1998(平成10)年4月17日以降、長らく「日本で唯一都道府県庁所在都市に高速道路がない県」であったが、2004(平成16)年11月1日に山陰自動車道青谷インターチェンジのある鳥取県気高郡青谷町が鳥取市に編入合併されたため解消された。鳥取県の行政機関は、鳥取県庁の他、地方機関として総合事務所等が置かれている。
秋のメープルもみじの日。
広島市西区商工センターに所在する、洋菓子等の観光土産品を製造販売する企業、株式会社サンエールが制定。日付は、1966(昭和41)年9月12日に、広島県の県の木が「モミジ」に決定したことから。5月26日の「メープルもみじの日」と同様に、秋にも自社のブランド「楓乃樹」から発売する「メープルもみじ」シリーズの販促と、広島県がもみじの名所であることを、国内外に発信することが目的。広島県に足を運び、美しい景色と美味しい食べ物を堪能してもらい、良い思い出を残してほしい、との想いも込められている。なお、5月26日の「メープルもみじの日」は、5月を表わす英単語の「May(メイ)」と、「26」を「プ(2)ル(6)」と読んで、「メープル」とする語呂合わせに由来する。
クイズの日。
東京都渋谷区円山町に所在する、クイズ問題の提供、クイズイベントの企画・運営等を手掛け、日本初のクイズの総合商社として知られる企業、株式会社キュービックが制定。クイズは、老若男女を問わず幅広く親しまれており、知りたい、学びたいとの思いから、日常的に「何?」「なぜ?」と感じること等、世の中のあらゆることはクイズになる。クイズの魅力、面白さ、奥深さを、さらに多くの人に知ってもらうことが目的。日付は、9月12日の「9」と「12」で、「ク(9)イ(1)ズ(2)」と読む語呂合わせから。
雨の特異日。
雨の確率が高い日。

日本骨髄増殖性腫瘍の日(Japan MPN Day)。
9月第2木曜日。骨髄増殖性腫瘍患者・家族会が制定。日付は、アメリカで同様の記念日「MPN Awareness Day」が、9月第2木曜日と定められていることから。希少疾患の真性赤血球増加症(PV)・本態性血小板血症(ET)・骨髄線維症(MF)の総称である骨髄増殖性腫瘍(MPN)の認知度を高め、患者の人により多くの情報が届くことが目的。骨髄系腫瘍の1つ、骨髄増殖性腫瘍は、血球系細胞に分化可能な幹細胞、造血幹細胞レベルの異常から、幼弱細胞から成熟血球細胞までが骨髄で異常増殖を起こす疾患である。
保己一忌。
国学者、塙保己一の1821(文政4)年の忌日(旧暦)。塙保己一は農家の家系で、7歳の春に失明した。江戸に出て按摩・鍼・音曲等の修業を始めたが、生来不器用でどれも上達しなかった。男性盲人の自治的職能互助組織、当道座の検校(最高位)であった雨富須賀一は、塙保己一の学才に気付き、国学・和歌・漢学・神道・医学等、様々な学問を学ばせた。塙保己一は、書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。1793(寛政5)年、江戸幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設、会読を始める。ここを拠点として、記録や手紙に至るまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが、国文学・国史を主とする一大叢書(特定の共通項に基づいて、幾つかの書物・著作を纏め上げたもの)『群書類従』である。また、歴史史料の編纂にも力を入れていて、『史料』として纏められている。この『史料』編纂の事業は、紆余曲折があったものの、東京大学の附置研究所の1つである東京大学史料編纂所に引継がれ、現在も続けられている。東京大学史料編纂所の出版している日本史の史料集『大日本史料』がそれである。盲人としても、死の直前となる1821(文政4)年2月に総検校(盲人の役職の最高位)となっている。現在の埼玉県本庄市にある塙保己一の生家は国の史跡に指定され、記念館も置かれている。視覚と聴覚の重複障害者(盲ろう者)でありながらも世界各地を歴訪し、障害者の教育・福祉の発展に尽くしたアメリカの社会福祉事業家・教育家・著作家、ヘレン・ケラーは、幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と母親から教育されていた。1937(昭和12)年4月26日、来日していたヘレン・ケラーは、東京の渋谷にある温故学会会館(『群書類従』の版木を管理・保存する目的で建設された会館)を訪れ、人生の目標であった塙保己一の座像や、塙保己一の机に触れている。ヘレン・ケラーは、「先生(塙保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っている。