ホコ天記念日。
1970(昭和45)年8月2日、銀座、新宿、池袋、浅草で、東京都内では初めて歩行者天国が実施された。東京都知事美濃部亮吉(当時)の提唱で、警視庁が「人間性を取戻す政策」として、週末の銀座、新宿、池袋、浅草で、自動車の交通を遮断して歩行者天国を実施した。歩行者天国が誕生したことで、これまでは「はしたない」(慎みがなく、礼儀に外れたり品格に欠けたりして見苦しい)とされた、路上で歩きながら飲食をする、いわゆる買い食いが、日常の中で当たり前のできごとになっていった。東京の原宿(東京都渋谷区神宮前に所在する、東日本旅客鉄道[JR東日本]山手線の原宿駅周辺から、東京都港区北青山に所在する、東京地下鉄[東京メトロ]表参道駅周辺にかけての汎称地名で、 現在の「東京都渋谷区神宮前」の町域がその大部分を占める)では、「竹の子族」や「ローラー族」、ストリートパフォーマー等、若者文化の発信地となり、彼らの活動はメディアで多く取上げられて話題となり、街全体に活気を与えていた。また、1980年代末頃からは、ホコ天発のバンドブームに伴なって、多数のバンドが路上演奏をするようにもなる。しかし、彼らの出す騒音や見物人の出すごみに対して地元から苦情が出され、後に歩行者天国が廃止に至る原因の1つとなった。なお、1973(昭和48)年6月10日、東京都中央区銀座から東京都台東区上野までの約5.5kmで、日本初の歩行者天国が実施されたことから、6月10日が「歩行者天国の日」となっている。歩行者天国とは、欧米等で発達している都市・街の歩行者空間の一種を指す。日本では、車両通行止の規制を行ない、車道部分を含めた道路全体を歩行者用道路として歩行者が歩けるようにする、警察署による措置の通称となる。東京都心の大動脈である中央通りは、かつては、銀座地区から上野駅まで連接した、東洋一の長さを誇る歩行者天国であったが、1999(平成11)年に、オフィス街であり、主な集客施設も無く、閑散としていた神田地区の歩行者天国が廃止され、2001(平成13)年には、上野・御徒町地区と日本橋・京橋地区が、中止実験を経て廃止された。2003(平成15)年頃までは、中止区間でも歩行者専用道路の標識は残されていたが、現在は撤去されている。
パンツの日。
1985(昭和60)年に奈良県磯城郡田原本町新町に本社を置く下着メーカー、株式会社イソカイ(2013[平成25]年に破産手続を開始)の前身、磯貝布帛工業株式会社が、自社ブランドのパンツ「シルビー802」に因み、この日をパンツの日とした。後に、大阪府箕面市船場東に本社を置くトランクスメーカー、オグラン株式会社(現在は、大阪市中央区南船場に実質本社を置く、インナーウェアやホームウェア等を手掛けるアパレルメーカー、オグランジャパン株式会社)も、8月2日の「8」と「2」を、「パ(8)ンツ(2)」と語呂合わせして制定する等、複数の下着メーカーが、記念日としてパンツの販売促進を行なっている。パンツとは、ズボンを指す言葉で、明治時代には「洋袴(ずぼん)」とも表記された。また、下半身に穿く短い肌着を指す言葉でもあり、どちらの意味で使われているかは、文脈等から判断しなければならない。日本では、1970年代までは、女性の下着を指す言葉として「パンティー」が一般的であったが、1980年代後半位から、男女・年齢の区別なく使われる「パンツ」が広く用いられるようになった。日本の下着業界では、女性用・女児用を「ショーツ」と呼称している。なお、子ども用については、男児用は「パンツ」、女児用は「パンツ」、又は「ショーツ」と呼ばれる。下着は、中着(中着を着用ていない場合は上着)の下に着用する衣服で、上の服を身体からの汚れから守り、体の保温、快適さ、加えて衛生を維持する目的で肌に直接着けるものは肌着(はだぎ)と称される。欧米やその他多くの社会では、下着や裸に対する禁忌が強く、20世紀の半ばを過ぎるまで、肌を露出することを極度に避ける慣習があった。現在でも、更衣室や風呂場等の限られた場所でなければ、裸を見せるべきではない、とする慣習が強く残っている。所によっては、靴下を脱いで素足になることすら禁じられていることもある。また、イスラム教を国教とする多くの地域では、厳格な服装制限がある。これに対し、日本やアジアの大部分、アフリカ、南北アメリカの先住民の間では、高温多湿な環境もあり、肌の露出に関する禁忌は小さい。夏の暑い日等には、下着のみで生活するのが常識、とされる地域や民族もある。
ワコールのパンツの日。
日本を代表するインナーウェア、アウターウェア等の繊維製品製造業となっている、京都市南区吉祥院中島町に本社を置く衣料品メーカー、株式会社ワコールが制定。記念日を通して、日常生活の中で「パンツ」への意識を高めてもらうことが目的。心地良さはもちろん、シルエットやデザイン、機能性等、自身に合うワコールスタイルの「パンツ」を選んで、履いて、気分を上げてもらいたい、との願いが込められている。日付は、8月2日の「8」と「2」で、「パ(8)ンツ(2)」と読む語呂合わせから。
金銀の日。
1928(昭和3)年8月2日、オランダ西部にあるオランダ最大の都市、アムステルダムで行なわれたアムステルダムオリンピック(第9回オリンピック競技大会)で、三段跳の織田幹雄選手が、日本初の金メダルを獲得。また、人見絹江選手が、陸上女子800mで日本人女性初の銀メダルを獲得したことによる。東京都文京区大塚に所在し、商業デザイン等を手掛けるデザインプロダクション、有限会社環境デザイン研究所代表の塩田芳郎が制定した日。織田幹雄は、「日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人としても、個人初のオリンピック金メダリストでもある。織田幹雄の金メダル獲得により、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる。当時、英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳したのは、この織田幹雄で、早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、長過ぎるので「三段跳」と訳したという。三段跳では、1928(昭和3)年のアムステルダムオリンピック(第9回オリンピック競技大会)で織田幹雄、1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピック(第10回オリンピック競技大会)で南部忠平、1936(昭和11)年のベルリンオリンピック(第11回オリンピック競技大会)で田島直人と、3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は日本のお家芸とも言われた。なお、南部忠平と織田幹雄は終生の友人であり、田島直人は、織田幹雄の影響で三段跳を始めた関係でもある。織田幹雄は、「陸上の神様」、或いは「日本陸上界の父」と呼ばれ、第二次世界大戦後には、日本全国で陸上競技を指導普及した、言わば日本陸上競技の育ての親のような存在である。人見絹江は、日本人女性初のオリンピックメダリストで、100m、200m、走幅跳の元世界記録保持者でもある。アムステルダムオリンピック(第9回オリンピック競技大会)では、女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーしたが、事実上100m一本に絞っていたという。100m予選は1着で通過したものの、準決勝は4着となり、決勝進出を逃した。800m決勝では、1920年代の女性陸上競技選手のパイオニアの1人、ドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、人見絹江は日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル獲得)となった。因みに、女子800m競技は、アムステルダムオリンピック(第9回オリンピック競技大会)で初めて実施されている。なお、人見絹江は、アムステルダムオリンピック(第9回オリンピック競技大会)決勝の日から3年後の1931(昭和6)年8月2日に、24歳の若さで没している。バルセロナオリンピック(第25回オリンピック競技大会)で銀メダルを獲得し、日本では人見絹江以来の陸上女子メダリストとなった有森裕子は、同じ岡山市出身で、祖母が人見絹江の女学校の後輩であったこともあり、人見絹江を尊敬しているという。