7月14日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第2日曜日 旧暦  6月 9日、友引(己卯)、月齢  8.2 
グレゴリオ暦で年始から196日目、年末まであと170日。
誕生花 ノウゼンカズラ・バラ・カワラナデシコ・フロックス。

二十四節気・雑節等
上弦。
半月。月と太陽の黄経差が90°となる日。

ペリー上陸記念日。
1853(嘉永6)年7月14日(旧暦6月9日)、蒸気外輪フリゲート艦『サスケハナ号』を旗艦とした、アメリカの蒸気船2隻を含む4隻の艦隊が、江戸湾の浦賀(現在の神奈川県横須賀市東部に所在)沖に現れ、停泊した。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら、煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。ペリー艦隊の大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢を取りながら、上陸に備えて、勝手に江戸湾の測量等を行ない始めた。さらに、7月4日のアメリカ合衆国独立記念日(インディペンデンス・デイ)の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。この件は、事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたが、最初の砲撃によって江戸は大混乱となった。やがて空砲と分かると、町民は砲撃音が響く度に、花火の感覚で喜んだと伝えられる。浦賀は見物人で溢れ、勝手に小船で近くまで繰出し、接触を試みるものもあったが、幕府から武士や町人に対して、「十分に警戒するよう」にとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂と共に、次第に不安が広がるようになった。この時の様子をして、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた。上喜撰とは、緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を4杯飲んだだけなのに(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「僅か4杯(時に船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために、国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。この頃、江戸幕府第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かったため、老中首座(将軍に直属し、政務を統轄した江戸幕府の常任最高職、老中の定員は4名から5名で、先任者、又は家門等、特別な家柄のものが老中首座として全体を統轄した)の阿部正弘が、ペリー艦隊の一行の上陸を許すことになる。東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督は、江戸幕府側が指定した久里浜(現在の神奈川県横須賀市東部に所在)に護衛を引連れ上陸、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に、日本開国へ向けて交渉するよう依頼する、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を手渡した。幕府は「将軍が病気であって決定できない」として、返答に1年の猶予を要求したため、マシュー・ペリー提督は「返事を聞くために1年後に再来航する」と告げた。ここでは文書の受渡しのみで、何ら外交上の交渉は行なわれなかった。日本側は、会見が終了して2、3日すれば、ペリー艦隊は退去するものと考えていたが、マシュー・ペリー提督は7月15日、蒸気外輪フリゲート艦『ミシシッピー号』に移乗し、浦賀から北上して江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み、将軍に充分な威嚇を示してから引返した。マシュー・ペリー提督退去から僅か10日後、将軍徳川家慶が死去した。将軍後継者の江戸幕府第13代将軍徳川家定は、病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし、老中等にも名案はなく、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部正弘は開国要求に頭を悩ませた。阿部正弘は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を求めたが、これは江戸幕府開幕以来初めてであった。国政に発言権の無かった外様大名は喜んだが、名案は無かった。これ以降は、国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという、「公議輿論」の考えだけが広がり、結果として幕府の権威を下げることとなった。1854(嘉永7)年2月13日、マシュー・ペリー提督は琉球(現在の沖縄県)を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、敢えて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦った。マシュー・ペリー提督は、香港で将軍徳川家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここにマシュー・ペリー提督の外交手腕を見て取ることもできる。計9隻という、当時としては大規模な艦隊が江戸湾に集結し、江戸は大きな動揺を受けた。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰掛けて、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。突然の大艦隊の来航に幕府は驚いたものの、前回の来航の時同様に、日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取ることはなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対し、フランス料理を振舞って歓迎した。日本人は鯛を喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、等の日本側を意識した部分が料理にあった。一方、日本側の招待された面々は、十手と孫の手を、ナイフとフォークに見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持帰るべきところを、料理そのものを懐紙に包んで持って帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいたことに驚いた、という(本膳料理[「食事をとる」という行為自体に儀式的な意味合いを持たせているのが特徴の日本料理の1つで、室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した]には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法である)。その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行なわれた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は、江戸日本橋浮世小路『百川』(現在の東京都中央区室町に所在した、江戸屈指の料理屋とされた料亭)が2,000両で請負い、300人分の膳を作った。2,000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、1人当たり約50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで100を超える料理が出された。しかし、「肉料理が出ないのは未開だから」、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品当たりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、マシュー・ペリー提督は「日本はもっといいものを隠している筈だ」と述懐している。但し、「日本はできる限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かに付けて、アメリカ側に料理を食べに行ったとされる。約1ヶ月に亘る協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受入れた。3月31日、マシュー・ペリー提督は約500名の将官や船員と共に、武蔵国神奈川近くの横浜村(現在の神奈川県横浜市に所在)に上陸して、日本側から歓待を受け、その後、儒学者で応接掛の林復斎を中心に交渉が開始された。全12ヶ条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて、日米合意は正式なものとなり、第3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。