7月14日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

廃藩置県の日。
1871(明治4)年7月14日(旧暦の日付で、新暦では8月29日となる)、藩を廃止して県を設置する詔書(天皇の命令を伝える公文書)が出された。1869(明治2)年の版籍奉還(各藩が所有していた土地や人を、朝廷に返還した藩解体政策の第一歩)で江戸時代の藩はなくなったが、旧藩主がそのまま藩知事を務めていたものを廃止し、在東京の知藩事を皇居に集めて、廃藩置県を命じた。これにより、政府は中央集権制を強化した。藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。各県には、知藩事に代わって、新たに中央政府から県令(県の長官)が派遣された。なお同日、各藩の藩札は、当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。当初は藩をそのまま県に置換えたため、現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。また、飛地が多く、地域としての纏まりも、後の県と比べると弱かった。そこで、1871(明治4)年10月から11月にかけて、3府72県に統合された。その後も合併を進め、1889(明治22)年には3府43県(北海道を除く)となった。廃藩置県は、平安時代後期以来続いてきた、特定の領主がその領地・所領を支配するという、土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」と言えるものであった。なお、「藩」という制度上の呼称は、この時初めて定められたものであり、江戸幕府下の正式な制度として「藩」という呼称はない。従って、公式には「藩」とは、1869(明治2)年の版籍奉還から1871(明治4)年の廃藩置県までの約2年間だけの制度である。当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入組んでおり、この府藩県三治制は非効率であった。また、軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、統率性を欠いた。そして、各藩と薩長新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。藩の中には財政事情が悪化したため、また、統一国家を目指すために、自ら政府に廃藩を願い出る所も出ていた。主に軍事面と財政面において、中央集権体制を進める廃藩置県の必要性は、次第に政府内で支持を増やしていた。一方で、薩摩国/大隅国薩摩藩における事実上の最高権力者、島津久光等の、近代化と中央集権化に反対する勢力も存在感を維持し、これらに対して、大久保利通や木戸孝允等の新政府実力者は、漸進的な姿勢を取らざるを得なかった。特に、圧倒的な軍事力を抱える薩摩藩の動向は、大きな懸念材料となっており、薩摩藩出身の実力者達は慎重な姿勢を見せていた。この現状に、中間官僚達は危機感を強めた。1871(明治4)年7月4日(旧暦の日付で、新暦では8月19日)、周防国/長門国長州藩出身で、1869(明治2)年に渡欧し、各国の軍事制度を視察していた兵部少輔山縣有朋に、危機感に駆られた長州藩出身の鳥尾小弥太と野村靖が、廃藩置県の即時断行を提議した。山縣有朋は即座に賛成し、鳥尾小弥太と野村靖と共に西郷隆盛や木戸孝允等の有力者の根回しに走った。鳥尾小弥太と野村靖は、大蔵省(現在の財務省の前身)を切回し、財政問題に悩む井上馨を味方に引入れ、山縣有朋は西郷隆盛を説得した。西郷隆盛は、戊辰戦争後の薩摩藩における膨大な数の士卒の扶助に苦慮し、藩体制の限界を感じていた。薩摩藩で大きな支持を集める西郷隆盛の同意を得て、中央集権化を密かに目指していた大久保利通や木戸孝允も賛成した。当初、廃藩置県案は薩長両藩の間で密かに進められ、後に、公家、土佐藩、佐賀藩出身の実力者である三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈重信らの賛成を得た。1871(明治4)年7月14日(旧暦)、明治政府は、在東京の56藩の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。当初は藩をそのまま県に置換えたため、現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。また、飛地が多く、地域としての纏まりも、後の県と比べると弱かった。そこで、1871(明治4)年に第1次府県統合が行なわれ、3府72県に統合された。各府県の管轄区域は国・郡を単位とする一円的な領域に再編され、後に、この府県の列順(序列)が布告されている。最初に東京・京都・大阪の3府の順、次に神奈川・兵庫・長崎・新潟の4県が定められた。これは、明治政府が開港地を重要視していたためである。1876(明治9)年に第2次府県統合が行なわれ、県の数は35県となったが、この統合で発足した県の中には、現在でも地域間対立や地理的要件の不一致等の問題を孕んでおり、名目上は1つの県でありながら、実質上は別の県という地域が少なくない。1881(明治14)年の堺県の大阪府への合併をもって、一応の府県統合は完了したが、今度は逆に、面積が大き過ぎるために、地域間対立が噴出したり、事務量が増加する等の問題点が出て来た。そのため、次は分割が進められて、1889(明治22)年には3府43県(北海道を除く)となって、最終的に落着いた。
検疫記念日。
1879(明治12)年7月14日、日本初となる伝染病予防の法令「海港虎列剌(コレラ)病伝染予防規則(明治12年7月14日太政官布告第28号)」が公布されたことを記念して、厚生省(現在の厚生労働省の前身の1つ)と、神奈川県横浜市中区山下町に本部を置く財団法人、日本検疫衛生協会(現在は、公益財団法人となっている)が1961(昭和36)年に制定した。なお、「海港虎列刺病伝染予防規則」は、直後の7月21日、「検疫停船規則(明治12年7月21日太政官布告第29号)」に改正されている。検疫とは、港湾や空港で、海外から持込まれた、若しくは海外へ持出す動物・植物・食品等が、病原体や有害物質に汚染されていないかどうかを確認することである。日本では、コレラ(コレラ毒素を産生するコレラ菌によって起こる急性胃腸炎で、菌に汚染された水や、加熱不十分な魚介類の飲食により感染する)患者のいる船を40日間沖に留め置く「コレラ船」という言葉があり、夏の季語となっていた。コレラ菌は、汚染された水や食物と共に飲み込まれると、腸管内で異常に繁殖し、患者を脱水症状にし、死に至らせることもある。コレラが日本で初めて発生したのは、最初の世界的大流行となった1822(安政5)年で、江戸での死者は約3万から約4万を数えたという。また、近年では、外来種(元々その地域にいなかったのに、人間の活動によって他の地域から入ってきた生物)を水際で防止するために必要な対策となっている。日本における人や食品の検疫は厚生労働省が、動植物の検疫は農林水産省が担当しており、全国の主要な空港・海港に設置された検疫所(厚生労働省)、又は動物検疫所、植物防疫所(共に農林水産省)で行なわれている。なお、日本の植物検疫では、輸出入等、外国との関係で行なう検疫を植物検疫、国内での病害虫防除も含めて行なうことを植物防疫という。野菜や果物等の農作物については、国内に生息しない害虫や病原菌を持込む可能性のある植物等については、国・地域と品目を特定して持込みを許さない場合がある。また、国内の一部に存在する病害虫の場合であっても、国内の他地域への移動を禁じていたり、検査しないと移動できなかったりする。現在の日本における検疫の手続は、「検疫法(昭和26年6月6日法律第201号)」等の法令による。「検疫法」は、国内に常在しない感染症の病原体が、国内に侵入することを防止すること等を目的に制定されている。検疫記念日が制定された1961(昭和36)年から、7月14日から7月20日までの1週間を「港の衛生週間」とし、検疫の大切さをPRする催し等を実施している。