7月5日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

江戸切子の日。 
伝統工芸として名高い江戸切子。10数種類ある代表的なカットパターンの中に、魚の卵をモチーフにした「魚子(ななこ)」という文様がある。職人の技量を試される難しいカットパターンの「魚子(ななこ)」を、7月5日の「7」と「5」と読む語呂合わせから、この日を記念日にしたのは、東京都江東区亀戸に所在し、江戸切子を手掛ける中小企業団体、東京カットグラス工業協同組合(現在の江戸切子協同組合)。職人技の思いと、江戸切子を多くの人に知ってもらうことが目的。江戸切子とは、江戸時代末期に江戸(現在の東京)で始まったカットグラス工法のガラス工芸・ガラス細工である。江戸時代末期に生産された江戸切子は、透明な鉛ガラス(透きガラス)に鑢(やすり)や金棒と金剛砂によって切子細工をし、木の棒等を用いて磨き行なった、手作業による手摺り工程での細工によって制作されたと考えられている。当時の薩摩切子(薩摩国/大隅国薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス細工・カットグラス[切子])が、厚い色ガラスを重ねた色被せ(いろきせ)ガラスも用いていたこと、回転する円盤状のホイールを用いた深いカットと大胆な形であることとは大きな違いがある。明治期以後は、薩摩切子の消滅による職人と技法の移転や、海外からの技術導入により、江戸においても色被せガラスの技法・素材も用いられるようになる。色ガラスの層は薄く、鮮やかなのが特徴である。加工方法も、文様を受継ぎつつ、手摺りからホイールを用いたものへ移行していく。江戸切子の文様としては、矢来・菊・麻の葉模様等、着物にも見られる身近な和の文様を繊細に切子をしているのも特徴である。現在は、当初からの素材であるクリスタルガラス等の透きガラスよりも、色被せガラスを素材に用いたものが切子らしいイメージとして捉えられており、多く生産されている。1873(明治6)年、明治政府の殖産興業政策の一環として、品川興業社硝子製造所が開設され、日本での近代的な硝子生産の試みが始まった。1881(明治14)年には、当時最先端の技術を持ったイギリスから、御雇い外国人としてカットグラス技師のエマヌエル・ホープトマンを招聘した。技術導入が行なわれ、数名の日本人が師事、近代的な技法が確立され以後発展した。江戸切子のルーツは、長崎を窓口として広まった蘭学による江戸の硝子技術・職人、また、薩摩切子廃絶に伴なう技術の移転、そしてイギリス・アイルランドのカットグラス技術等が融合していったものと考えられる。大正期から昭和初期(第二次世界大戦対米英戦開戦前)にかけての大正文化・モダニズムの時代に、カットグラスは人気となり、食器からランプに至る、多様な形で普及する。第二次世界大戦対米英戦中は、平和産業のため制限下に置かれ、多くの職人も出征。残った職人達は、転業や疎開、また、その加工技術から戦闘機向けガラス加工等、軍需生産にも動員された。第二次世界大戦後、主な生産地であった東京都江東区一体の下町は灰燼に帰し、戦中の制限もあって、業界は壊滅的打撃を受けていた。その荒廃の中から各メーカーや問屋に加え、新たに旧軍向け光学レンズからガラス食器に参入・技術転用し、後に世界的なクリスタルガラスブランドへと発展した保谷硝子(現:HOYAクリスタル)等のカットグラス生産に切子職人達が関わり復興していく。その背景には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の進駐によるガラス食器の発注や、海外向け高級シャンデリア等の輸出等、「外貨獲得の戦士」と称された時代、さらに、1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月までの約19年間とされる、高度経済成長期(日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期)等、生活の洋風化に伴なうグラス・花器・洋食器の普及・需要増があった。復興・成長期を経た後は、発達してきたロボット・マシンメイドによるカットグラス加工の機械化・量産化がメーカーで進む他、格安な輸入品の増加によって、職人の下請け加工は、仕事量と質が大きな影響を受け始める。昭和50年代に入り、行政の伝統工芸や地場産業振興の政策を受け、組合が江戸切子として東京都伝統工芸品指定を受ける等、伝統工芸の看板として掲げた活動も進み始める。しかし、円高不況による輸出の減少や、バブル崩壊(第1次平成不況、1991[平成3]年3月から1993[平成5)年10月までの景気後退期)からの長期不況を受け、メーカー・問屋・吹きガラス工場の廃業・撤退等も見られるようになり、クリスタルガラス素材を始めとする素材入手困難化や、取引先・販路の縮小・変化が顕在化する。仕事量の減少は、職人育成の余裕も減らすこととなり、後継者の不足と高齢化の課題を抱える等、複合的要因から廃業も多くなっている。現在では、多くの課題に対して、様々な試みをしながら和の特色と個性を反映した日本のカットグラス・ガラス工芸として、普及・生き残りを図っている。江戸切子は薩摩切子と違い、現在に至るまで継続している。その歴史は、震災・戦災の他、幾多の困難を経ても途絶え無かったこと、また、文様や用途も身近な庶民の暮らしと共に発展していったこと等から、「庶民の育てた文化」とも言われている。なお、江戸切子と薩摩切子との違いは、江戸切子が透明・無色な硝子(透きガラス)に細工を施したものであることに対し、薩摩切子は、より細かい細工(籠目紋内に魚子紋等)や、色被せと呼ばれる表面に、着色ガラス層を付けた生地を用いたものが多く、また、ホイールを用いた加工の有無が挙げられる。薩摩切子は、ヨーロッパのカットガラスに範を取り、色被せの技法は、ボヘミアガラス(ガラスを加工する、中央ヨーロッパに位置する国、チェコの伝統産業の1つ)や乾隆ガラス(中国清朝の時代、大帝と呼ばれた第6代皇帝乾隆帝の年代である18世紀後半の頃に作られたガラス製品)から学んだもののようであるが、現在に伝わる当時の品には、日本的な繊細さが見られる。色被せの薩摩切子の特徴として、特にその色の層の厚さがあり、これに大胆な切子を施すことによって、切子面に色のグラデーション(図画の中で、位置に対し色が連続的に変化すること)が生まれる。これが、色被せ薩摩の特徴で「ぼかし」と呼ばれるものである。1985(昭和60)年頃以後に薩摩切子の復刻が試みられ、各地のガラス工場・職人・研究家等の協力もあって成功した。現在は、現存する古い薩摩切子を忠実に再現した復元・復刻物や、その特徴を踏まえた、新たなデザインや色の製品や創作品も生産・販売されている。ガラス商人の播磨屋久兵衛は、オランダ人より伝えられたガラス製法を長崎で学んだ。その後、大坂(現在の大阪)に持込み、現在の大阪市北区天神橋に所在する大阪天満宮近くでガラス工芸を始めた、と言われており、今も大阪天満宮正門脇には「大阪ガラス発祥の地」の碑が残っている。1819(文政2)年には、大坂にガラス工場が作られたとされ、ガラス製造の開始は、江戸よりも大坂の方が早かったという。明治時代になると、大阪天満宮の北、現在の大阪市北区与力町や大阪市北区同心町を中心に、切子を始めとするガラス工場が増え、大阪のガラス産業は急速に膨張する。その業者の数は東京を凌いでいた、とする書籍もあり、往時の盛況振りが覗える。ガラスのビー玉が初めて国産化されたのも、現在の大阪市北区である。その後、国内の競争や安い輸入品に押され、隆盛を誇った大阪のガラス産業も衰退した。