6月27日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

演説の日。
1874(明治7)年6月27日、日本初の演説会が、慶應義塾内の三田演説館で行なわれた。演説とは、議会や民衆等の前で自らの主義、主張を話すことである。現在の日本においては、日本国憲法で結社、表現、思想の自由等が認められているため、公共の場所なら、いつでもどこでも常識の範囲内で演説することができる。私有地においても、相応の許可を取れば演説が可能である。日本では一般的に、選挙運動期間中に、繁華街の駅前等でその選挙区等の候補者の演説を聞くことができる。また、「遊説」ということもあるが、この「遊説」という言葉は、意見や主張を説いて歩くことで、特に、政治家が各地を演説して回ることを指すことが多い。選挙運動期間以外でも、特定の政治団体等が、演説会を開催している場合がある。また、議会等で議員が壇上で自らの主張を述べるのも演説と言え、新内閣発足時に慣例として行なわれる所信表明演説(政府の長が自分の考え[所信]を述べる演説)は、その全文が新聞に公開されるのが常である。因みに「演歌」は、「演説歌」の略語であり、明治の自由民権運動時代にできた言葉で、「演説」が語源である。藩閥(明治維新後、有力な特定藩の出身者が政府の要職を独占して結成した政治的な派閥)政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段で、政治を風刺する歌(プロテストソング)であり、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが、「演歌」という名称の始まりと言われる。この頃流行ったのが、後鉢巻きに赤い陣羽織を着て、日の丸の軍扇をかざして歌った「オッペケペー節」を筆頭に「ヤッツケロー節」「ゲンコツ節」等である。他にも、政治を風刺する歌はあったが、これ以後、「演歌」という名称が定着する。明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が、演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。昭和に入ると、外資系レコード会社が日本に製造会社を作り、電気吹込みという新録音システムも導入され、新しい時代を迎えた。商業的に「流行」、つまりヒットさせることを目的に作られた「流行歌」と呼ばれる一大分野が、大衆音楽の世界をほぼ独占し、しばらく「演歌」は音楽界から退場することになる。第二次世界大戦後も、日本の大衆音楽は「流行歌」によっていたが、次第に、民謡や浪曲等をベースにし、それまでの「流行歌」とはかなり質の異なる、現在の演歌に近い作風の楽曲が出現し始めた。第二次世界大戦戦前に途絶した「演歌」分野の再来ではあるものの、社会風刺的要素は全くなく、「名称だけの復活」となり、演説歌を起源とする旧来の演歌は、第二次世界大戦後に流入したアメリカンフォークの影響によって、いわゆる「反戦フォーク」に代表される「フォークソング」に変わる。「演説」という表記は、著述家・啓蒙思想家・教育者の福沢諭吉と、慶應義塾関係者による造語である。当初、福沢諭吉の出身地である旧豊前国中津藩で上申に用いられていた「演舌書」という文書があり、「舌の字は餘(あま)り俗なり、同音の説の字に改めん」としたことが端緒である。福沢諭吉の著書『学問のすゝめ』の中では、演説の重要性が説かれている。三田演説館は、慶應義塾大学三田キャンパス(東京都港区三田に所在)にある演説講堂であり、図書館旧館と共に、慶應義塾大学を象徴する建造物で、日本の重要文化財指定建造物でもある。アメリカから取寄せられた図面を元に造られており、洋風でありながら、外観は木造瓦葺、なまこ壁(壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地[継ぎ目]に漆喰をかまぼこ型に盛付けて塗る工法)といった日本独特の手法が用いられている。「三田演説会」「福澤先生ウェーランド経済書講述記念日講演」「名誉博士号授与式」等に使用される以外では通常閉館されており、外部から眺めることしかできない。仏教用語における演説は、インド等、南アジアや東南アジアにおいて用いられた古代語、サンスクリット語の「ニルデーシャ」の訳で、教えを演べ説くこととなり、法(真理や道理等)を人々に分かり易く説き明かすことを言う。福沢諭吉等の翻訳以前は、主にこちらの意味で、演説という語句が使われていた。スピーチライターは、演説(スピーチ)をする本人に代わって、その原稿を執筆する人物、又は、その職業である。スピーチライターの作成する原稿は多岐に亘り、政治家が話すスピーチだけではなく、企業や団体の役員等が話す冠婚葬祭の挨拶、各種行事における挨拶等もある。「スピーチ代筆業」と称している事業者も多数存在するが、実質的には、スピーチライターの仕事を行なっており、スピーチライターは、ある一定の業界を形成している。日本では、官僚や秘書官等が、政治家に代わって演説原稿を執筆してきた。特に資格等はなく、若手の中から文章の上手い者が選ばれている。日本と異なり、ヨーロッパにおいては、古くからスピーチが、リーダーに必要な教養として認識されてきた。しかし、スピーチライターも同じく、古くから存在しているという訳ではない。スピーチライターの登場は、民主主義国家の確立によって、国家政策にスピーチが必要になってきてからである。 
ちらし寿司の日。 
広島市西区商工センターに本社を置き、巻寿司の材料となる玉子焼、味付干瓢等を製造販売する食品加工会社で、ちらし寿司等の調理用食材の製造販売メーカーでもある、株式会社あじかんが2004(平成16)年に制定。日付の由来は、岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれるきっかけとなったとされる、備前国岡山藩の池田家宗家初代藩主、池田光政の命日である1682年6月27日(旧暦では、天和2年5月22日)から。播磨国姫路藩の第2代藩主であった池田利隆の長男として出生した池田光政は、当時の備前国岡山藩初代藩主池田忠継(池田光政の叔父)が幼少のため、池田利隆は岡山城代も兼ねており、池田光政はそこで生まれた。池田忠継が17歳で早世したため、その跡を継いだ池田忠継同母弟、池田忠雄も1632(寛永9)年に31歳で死去した。その家督を継いだ池田忠雄の長男、池田光仲は、3歳の幼少のため、山陽道の要所である岡山を治め難いとされ、同じ1632(寛永9)年6月に、池田光政は岡山31万5,000石へ移封となり、池田光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなった。以後、現在の兵庫県姫路市にある姫路城を、現在残る姿に大規模に修築したことで知られ、「西国将軍」と呼ばれた、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名、池田輝政の嫡孫である池田光政の家系が、明治まで岡山藩を治めることとなった。池田光政は、日本最古の庶民の学校として、閑谷学校(現在の岡山県備前市閑谷に所在し、「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝に指定されている)も開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし、「備前風」と言われる政治姿勢を確立した。新田開発や治水を行ない、また、産業の振興も奨励した。このため、池田光政は、常陸国水戸藩第2代藩主徳川光圀や陸奥国会津藩初代藩主保科正之と並び、江戸時代初期の三名君と称されている。池田光政は、庶民の奢侈を禁止した。特に、神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じた。このため、現在の岡山県東南部が主な相当領域の備前国は、米どころであるにも係わらず、銘酒が育たなかった。現在、岡山名物の料理となっているちらし寿司の一種、ばら寿司の誕生にも、池田光政の倹約令が絡んでいると言われる。倹約令の1つに、食事は一汁一菜というものがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという。その時の混ぜご飯が、現在のちらし寿司の原型になった、とされている。大阪等の関西にも「ばら寿司」があるが、岡山の「ばら寿司」は、それよりも具材の品目数・大きさ・量が圧倒的に多いのが特徴である。地域や季節によって内容が変わるものの、基本的に、椎茸・干瓢の煮しめ等の少量の切った具を混ぜ込んだ酢飯を作り、その上に錦糸玉子を敷き、さらに、その上に茹でニンジン、酢蓮根、エンドウ、竹輪、蒲鉾、田麩、味を付けた高野豆腐、茹でた蛸、殻付の海老、焼穴子、烏賊、蛸、藻貝(内湾に多産する小型の二枚貝)、鰆、ママカリ(ニシン科に分類されるサッパという魚で、「飯が進み、家で炊いた分を食べ切ってしまってもまだ足らず、隣の家から飯を借りてこなければならない程旨い」とされることから、「飯借り」と呼ばれるようになった)等の具材を大きめに切断して(藻貝やエビ、エンドウ等は切らない)敷詰める。また、生ものはあまり使用されない(地域によっては使用する)。