6月27日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年  
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第4木曜日 旧暦  5月22日、友引(壬戌)、月齢 20.6 
グレゴリオ暦で年始から179日目、年末まであと187日。
誕生花 カラー・トケイソウ。

奇跡の人の日/ヘレン・ケラー・バースデー。
アメリカの社会福祉事業家・教育家・著作家、ヘレン・ケラーの1880(明治13)年の誕生日。アメリカ合衆国南部、アラバマ州の北部にあるタスカンビアで誕生したヘレン・ケラーの父、アーサー・ケラーは、スイスのドイツ語圏から移住したドイツ系の地主の息子で、アーサー・ケラーの母(ヘレン・ケラーの祖母)のマリー・フェアファックス・ケラーは、イングランド系アメリカ人の南軍(アメリカ合衆国から分離して独立を宣言した南部諸州によって創設された、アメリカ連合国が動員した軍事力)の総司令官、ロバート・E・リーとは又従兄弟姉妹の関係にあり、アーサー・ケラーもまた、南北戦争(1861[文久元]年から1865[慶応元]年にかけて、アメリカ合衆国の北部諸州とアメリカ連合国を称した南部諸州との間で行なわれた内戦)当時の南軍大尉で、ドイツ系アメリカ人である。母のケイト・アダムス・ケラーも、アーサー・ケラーの母と同じく、イングランド系アメリカ人であり、その父のチャールズ・アダムス(ヘレン・ケラーの祖父)は、南軍の准将であった。ヘレン・ケラーの両親共に、南部の名家の出身である。兄弟は異母兄が2人、後に同母妹を持つ。約1歳半(生後19ヶ月)で、高熱(現在では猩紅熱[小児に多い発疹性伝染病]が原因と考えられている)に伴なう髄膜炎(髄膜[脳、及び脊髄を覆う保護膜]に炎症が生じた状態)に罹患する。医師と家族の懸命な治療により、かろうじて一命は取留めたものの、聴力、視力、言葉を失い、話すことさえできなくなった。このことから、両親からしつけを受けることのできない状態となり、非常にわがままに育ってしまう。1887(明治20)年、ヘレン・ケラーの両親は、聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(スコットランド生まれの科学者・発明家・工学者で、電話の発明者として知られる)を訪れ、アレクサンダー・グラハム・ベルの紹介で、アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長マイケル・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。1887(明治20)年3月3日に派遣されてきたのが、パーキンス盲学校を優秀な成績で卒業した、当時20歳のアン・サリヴァン(通称:アニー)であった。アン・サリヴァンは、小さい頃から弱視であったため(手術をして当時は既に視力があった)、自分の経験を活かしてヘレン・ケラーに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。そのお蔭でヘレン・ケラーは、諦めかけていた「話すこと」ができるようになった。アン・サリヴァンは、その後約50年にも亘って、良き教師として、そして友人として、ヘレン・ケラーを支えていくことになる。1904(明治37)年、ラドクリフ女子大学(アメリカ合衆国北東部、マサチューセッツ州ケンブリッジにある、現在のハーバード大学の前身の1つ)を卒業、文学士の称号を得る。その後、婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動等、多くの政治的・人道的な抗議運動に参加する。また、著作家としても活動を続ける。ヘレン・ケラーは、「三重苦」であったと言われているが、発声に関してはある程度克服した。ヘレン・ケラーの妹の孫によれば、抑揚はないものの、話すことができたという。ヘレン・ケラーとアン・サリヴァンの半生は、『The Miracle Worker』として舞台化、及び映画化されており、日本では『奇跡の人』という日本語題で何度も上演されている。英語の「The Miracle Worker」には「(何かに対して働き掛けて)奇跡を起こす人」といった意味があり、アン・サリヴァンのことを指すが、日本では、ヘレン・ケラーのことと誤解され、「奇跡の人」がヘレン・ケラーの代名詞として用いられることも多い。アン・サリヴァンは、ヘレン・ケラーの初訪日直前に病没しているため、日本ではアン・サリヴァンを知る人がごく一部しかいなかったのが、誤解の原因と言われている。ヘレン・ケラーは、1937(昭和12)年には訪日し、日本各地を訪問した。この訪日で、ヘレン・ケラーは秋田犬を所望し、後に「カミカゼ」と「ケンザン」という名の2頭を贈られた。ヘレン・ケラーがアメリカへ帰国した際に連れて帰った愛犬「カミカゼ」は、初めてアメリカに持込まれた秋田犬となる。ヘレン・ケラーは「カミカゼ」が他界した後、「ケンザン」もアメリカへ呼寄せている。因みに、秋田犬(あきたいぬ)は、秋田県原産の日本犬の一種で、国の天然記念物に指定されている6つの日本犬種の内、唯一の大型犬種である。「あきたけん」と読まれることも多いが、秋田犬保存会でも読み方を「あきたいぬ」としている。日本人の間では、忠犬ハチ公のエピソードで有名であり、主人に忠実な家庭犬の品種として、広く知られている。秋田県で闘犬や狩猟犬として飼育されていたものを品種固定した犬であり、平成時代以降も、秋田県下を中心に家庭犬としての愛好者が多い。また、ヘレン・ケラーは、横浜港の客船待合室で財布を盗まれてしまう。そのことが新聞で報道されると、日本全国の多くの人々からヘレン・ケラー宛てに現金が寄せられた。その額は、ヘレン・ケラーが日本を離れる時までに盗まれた額の10倍以上に達していた。さらに、1948(昭和23)年と1955(昭和30)年にもヘレン・ケラーは訪日し、熱烈な歓迎を受けた。幼少時、ヘレン・ケラーは、同じく盲目の塙保己一(江戸時代後期の国学者で、国文学・国史を主とする一大叢書[特定の共通項に基づいて、幾つかの書物・著作を纏め上げたもの]『群書類従』の編纂者として有名)を手本に勉強したという。塙保己一のことは、母親から言い聞かされていたとされる。ヘレン・ケラーは福祉活動のみならず、広範囲な政治的関心を持って活動した女性であった。当時としては先進的な思想を持ち、男女同権論者として婦人参政権、避妊具の使用を主張した。また、人種差別反対論者であり、過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮にも反対した。1948(昭和23)年に2度目の訪日を果たしたヘレン・ケラーは、約2ヶ月滞在し、日本全国を講演して回った。これを記念して、2年後の1950(昭和25)年には、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団と、財団法人西日本ヘレンケラー財団が設立されている。東京都新宿区大久保に事務局を置き、視覚障害者支援事業を行なっている社会福祉法人、東京ヘレン・ケラー協会は、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団として発足し、「社会福祉事業法(昭和26年3月29日法律第45号)」の施行に伴ない、1952(昭和27)年5月17日、現在の名称に組織変更した。なお、「社会福祉事業法」は、「社会福祉の増進のための社会福祉事業法等の一部を改正する等の法律(平成12年6月7日法律第111号)」により、法律の題名は「社会福祉法」となっている。大阪市阿倍野区昭和町に事務局を置き、障害者支援事業を行なっている社会福祉法人、日本ヘレンケラー財団は、ヘレン・ケラー来日の際の募金や事業収益を元に、財団法人西日本ヘレンケラー財団として設立され、1952(昭和27)年5月27日、社会福祉法人に組織変更した後、1966(昭和41)年6月、現在の名称に改称している。