6月26日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

雷記念日
930(延長8)年6月26日(旧暦)、平安京の天皇の御殿、清涼殿(現在の京都市上京区に所在)に落雷があり、大納言で民部卿(民政を司る民部省の長官)の藤原清貴らが亡くなった。平安京では長い間日照りが続き、公卿達が清涼殿に集まり、雨乞いを行なっていた時のできごとであった。清涼殿に居ながらも難を逃れた公卿達は大混乱に陥り、第60代天皇、醍醐天皇も、急遽清涼殿から常寧殿(儀式的役割を担う御殿)に避難した。しかし、惨状を目の当たりにして体調を崩し、約3ヶ月後に崩御することとなる。天皇の居所に落雷したということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫が、かつて筑前国大宰府(現在の福岡県太宰府市に所在)に左遷された貴族・学者、菅原道真の動向監視を、左大臣であった藤原時平に命じられていたこともあり、藤原清貫は菅原道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。なお、藤原時平は、菅原道真を追放して政権を掌握したが、39歳の若さで早逝している。また、菅原道真の怨霊が雷を操ったということとなり、菅原道真が雷の神「天神」になった、という伝説が流布する契機にもなった。菅原道真の死後、京には異変が相次いていたことから、菅原道真の祟りと恐れた朝廷は、菅原道真の罪を赦すと共に贈位を行なった。子ども達も流罪を解かれ、京に呼び返された。天神信仰とは、天神(雷神)に対する信仰のことである。特に、菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来、天神とは国津神(土着の神)に対する天津神(天上の世界「高天原」に住まう神)のことであり、特定の神の名ではなかった。しかし、清涼殿落雷事件を契機に、菅原道真の怨霊が北野(現在の京都市上京区に所在)の地に祀られていた火雷神(土地を守護する神である地主神)と結び付けて考えられ、火雷天神と呼ばるようになり、菅原道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。朝廷は北野の地に北野天満宮を建立して、菅原道真の祟りを鎮めようとした。菅原道真が亡くなった太宰府にも、墓所の地に安楽寺天満宮、後の太宰府天満宮が建立された。987(永延元)年には「北野天満宮大神」の神号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天等とも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。その後、平安時代末期から鎌倉時代にかけては怨霊として恐れられることは少くなり、この頃に描かれた、菅原道真の一代記、菅公怨霊譚、北野天神の由来・霊験を描く絵巻『北野天神縁起』によれば、この時代では、慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌等の芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるようになっていた。また、貿易商から海難除けの神、皇族他、歴代幕府・戦国大名等の武将達には、怨敵調伏・戦勝祈願・王城鎮護の神として信仰された。江戸時代以降は、菅原道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として盛んに信仰されるようになった。近代に入ると、天皇への忠誠心を説く為に、忠臣として教科書等で取上げられた。元々の火雷神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨と共に起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから、農耕の神でもある。各地に火雷神と同様の伝承で天神が祀られていたが、菅原道真が「天神さま」や「天神さん」等と呼ばれるようになり、各地で祀られていた天神もまた、菅原道真とされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請(仏神の霊や像を、寺社に新たに迎えて奉安すること)も盛んに行なわれた。天神(菅原道真)を祀る神社は、天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社等という名称で、九州や西日本を中心に約1万社あるともされ、分社の数は第3位である。なお、901(昌泰4/延喜元)年1月25日(旧暦)、菅原道真が第60代天皇、醍醐天皇によって大宰員外帥(九州の筑前国[現在の福岡県西部]に設置された地方行政機関、大宰府の長官である大宰帥の権官[正規の員数を越えて任命する官職])に左遷されたことから、1月25日も「雷記念日」とされている。
オリエンテーリングの日。
1966(昭和41)年6月26日、高尾山(東京都南西部、八王子市高尾町にある標高599mの山)で、日本初のオリエンテーリングが行なわれたことから。オリエンテーリングとは、地図とコンパス(磁石の作用を用いて方位を知るための道具)を用いて、山野に設置されたポイント(コントロール)を、スタートから指定された順序で通過し、フィニッシュまでの所要時間を競う、野外スポーツの一種である。19世紀中頃に、スウェーデン軍が訓練の一環として始めたと言われる。オリエンテーリング用の地図は、専用のものが作られる。通常の地形図をベースに、細かい地形や植生、林の中の走行度、道の太さに至るまでの情報が人手によって記録され、作図される。地図の縮尺は、主に1:10000、又は1:15000のものが使われる。地図は、競技の際に初めて競技者に渡され、地図が作成される地域(テレイン)への、競技者の事前の下見等での立入りは禁止される。このため、競技者は初めて見る地図と、地形に柔軟に対応する力を持つ必要がある。通過ポイントは、道上等の簡単な場所にはないことが通常で、上位のクラスでは、通過ポイント間の最適ルートが森の中をコンパスを頼りに、数百m直進することも多い。ルート選択やナビゲーション技術、周囲の地形の読取りという頭脳的ゲームとしての側面と、地形変化に対応する足腰や基本的走力といった、陸上競技としての側面を併せ持ったユニークなスポーツと言える。「オリエンテーリング(Orienteering)」の語源は、ドイツ語の「Orienterungs Lauf(方向を定めて走る)」を略したものである。長距離走で野山を駆ける陸上競技の一種で、特に、草原地等の整地されていないコースでの中長距離走、クロスカントリー走のイメージで捉えた方が実際に近い。クロスカントリー走との違いは、走るコースが全て決められている訳ではないことで、1990年代以降、スキーや、不整地の走行に適した自転車であるマウンテンバイク(MTB)によるオリエンテーリング(それぞれ、スキー・オリエンテーリング、マウンテンバイク・オリエンテーリングという)の普及も図られ、これらと区別するために、従来からのクロスカントリー走に基づくオリエンテーリングを、「フット・オリエンテーリング(Foot Orienteering)」と呼称する場合もある。全国単位の競技組織として、公益社団法人日本オリエンテーリング協会が存在する。東京都新宿区霞ヶ丘町に本部を置く日本オリエンテーリング協会は、1990(平成2)年7月に設立され、1991(平成3)年に社団法人として認可された後、2012年には公益社団法人化され、日本におけるオリエンテーリング競技を統括し、全国大会の開催、障害者への普及を通じて、オリエンテーリング競技等を促進するために活動する公益法人となっている。現在、日本で競技として楽しむ人(オリエンティア)の数は数千名とされ、その多くが大学のサークルで始める人々である。日本でオリエンテーリングが行なわれる環境は、人里近くの山野であり、多くの競技者が山に入った場合、他の野外活動以上に、自然環境が荒廃する問題や、競技者のマナーの問題から、地権者や地域社会との関係が悪化する場合もある。オリエンテーリング競技はマイナーなスポーツであるため、地域社会の理解を得て良好な関係を継続して築いていくことが重要となる。